「座右の銘」を木に刻むことをお勧めするために、四字熟語を中心とした「刻語」の自作例を掲載しているサイトです。

座右の銘を刻む、四字熟語を主に制作しています。

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      言葉と制作例 (目次)

        3. 名言

      若き日に薔薇を摘め





八十歳をこえて、執筆活動や法話・講演に全国を駆け巡って活躍する瀬戸内寂聴氏が色紙に好んで書く言葉がこの言葉だそうだ。薔薇を摘むと、トゲが刺さって血が出る。しかし、若いうちはすぐに治るのだから、怖がらずに何ごとにも挑戦しなさいと。
英詩人ロバート・へリックの『乙女らへ、時を大切にせよ』(To the Virgins, to Make Much of Time)には以下のように歌われている。

年若き日に薔薇のつぼみを摘みなさい/古い時は今も過ぎ行く/今日笑って咲いているその花も/明日には枯れてしまうだろう
天国に輝く灯 太陽も/より高く昇れば/それだけ早く降りてくる/沈む時も近い
一番よい時は、そのはじめの時/若さと血潮の熱いとき/無駄にすごせばしおれるばかり/時は昔に帰らない/はにかんでないで若い時を楽しみなさい/そうして、早く結婚を/花の盛りを過ぎたなら/いつまでもただ待ち続けるだけ

これを翻案したのが、大正四年発表の「ゴンドラの歌」(吉井勇)といわれる。
いのち短し恋せよ乙女/紅き唇あせぬ間に/熱き血潮の冷えぬ間に/明日の月日はないものを

要は解釈の仕方である。ここで歌われるのは享楽的な側面が強調されて見えるが、薔薇=人生の楽しみととらえることによって、瀬戸内氏の意図する、若い日には何事にも挑戦するという精神を鼓舞する言葉になりえている。
 


      三万六千五百朝




坂村真民
「三万六千五百朝」(棟方志巧) なんといういい言葉だろうか。百年生きたって僅か三万六千五百朝だ。一朝だってムダにしてはならないんだと、腹にしみわたるような言葉だ。

森信三
一回限りのマラソン競争
われわれ人間の一生は、ただ一回のマラソン競争みたいなものでありまして、もしそうだとしたら、それについてコースのだいたいの見当がついているか否かということは、たいへん大事なことです。 現在自分は、決勝点まで、一体どの地点を走っているか、ということを、忘れないことが大切です。その結論として、われわれ人間は、人生の決勝点に入るまでの人生の長さをつねに忘れず、一日一日の生活の充実を期せねばならぬと思うわけです。

中村天風
気高く生きよう
よく考えなさい。人生は、たとえ何百年生きていても、仮に百年生きたとしても、この大宇宙の生命に比べれば、夢一瞬の短い世界。この短い人生に生きている以上は、一瞬、一刻を価値高く生きようじゃないか。

菜根譚
■前集108項
●天地有万古、此身不再得。人生只百年、此日最易過。幸生其間者、不可不知有生之楽、亦不可不懐虚生之憂。
○天地は万古(ばんこ)有るも、此の身は再び得られず。人生ただ百年、この日最も過(すご)し易し。幸い、その間に生まるる者は、有生(ゆうせい)の楽しみを知らざるべからず、亦(また)虚生(きょせい)の憂(うれ)いを懐(いだ)かざるべからず。
■天地は永遠のものであるが、この身を再び得ることはない。人生はせいぜい百年で、月日はどんどん過ぎてゆく。幸いに、この世に生まれた者は、生きている楽しみを知り、無駄に過ごすことの無いように心得ていなければならない。つまり、百年そこそこの一回きりの人生が無駄にならないように、使命を果たしつつ幸せに生きなければならないということ。
 

      いまから ここから







坂村真民
これからだ
ちいさい時からわたしの耳に/常に聞こえてきた/一つのことばがある/体が弱かったから/頭がよくなかったから/特に強く聞こえてきたのであろう/わたしはこのことばを/風のように聴き/自分を鞭うち励ましてきた/それが今もわたしの耳に/鐘のように響いてくる/これからだ/これからだ/本当の詩も/本当の字も/本当の信仰も/これからだと/耳順を過ぎた耳に/新しい年を迎えようとする耳に
 

      ふたつよきこと さてないものよ





森信三
人間は、順調ということは、表面上からはいかにも結構なようですが、実はそれだけ人間が、お目出たくなりつつあるわけです。すると表面のプラスに対して、裏面にはちゃんとマイナスがくっついているという始末です。
「世の中に両方よいことはない」。つまりすべては一長一短だということで、この点が真にわかったら宗教はいらぬともいえましょう。
ところがたいていの人は何とかして両方ともよいようにしようともがくわけです。どちらか一方を思い切って断念するか、それとも両方とも基準を下げて調節するかしないと落ちつけないでしょう。
実際天は公平でありまして、一方にマイナスを置けば、他の一方には、必ずそれに相当するだけのプラスを置くのであります。そのために大部分の人は、前にマイナスのかごが、そして後ろにプラスのかごのついた天秤棒をかついでいるようなものです。
この後ろのプラスのかごが、なかなかわからない証拠には、あなた方の周囲にいる人で、少しも不平をいわず、不満ももらさない人が、一体どれほどあるでしょうか。

世の中は正直
そもそも世の中が不公平であるというのは、物事の上っ面だけを見て、ことに短い期間のみを見ているためであって、少しく長い目で見るならば、結局世の中は、普通の人々の考えているよりも、はるかに公平なものでしょう。否、わたくし自身の信念から申せば、世の中ほど公平なものはないと思うのです。
神の天秤は、何人においても例外なく平衡であります。

宇宙の大法
そもそも物の面における繁栄は、逆に心の面において貧困化するということが、今やあらゆる事象の上に、いちいち実証せられるに至りました。たとえば男性の女性化と女性の男性化、また止まるところを知らぬ性的頽廃極悪犯罪の低年齢化の波及等。すなわちこれを易の哲理に照らしてみても、自然科学による巨大なプラス面が、必然に他方に同じ程度の巨大なマイナス面を生じるのは、まさに「宇宙の大法」といってよいわけです。

真理の肉体化
六十代から徐々に真理の肉体化のはじまったわたくしは、その後六十代の十年をへて、七十を迎えました。
そのわたくしに、いったいどのような世界が開かれてきたかと申しますと、それは端的には「世の中には両方よいことはない」というきわめて易簡平凡な真理の庶民的実現であります。多少とも物事の道理をわきまえている人なら、一応は何人にもわかっているといえそうな庶民的表現に達したのであります。

二宮尊徳
夜話26
○涅槃経に此の譬へあり、或人の家に容貌美麗端正なる婦人入り来る。主人如何なる御人ぞと問ふ。婦人答へて曰く、我は功徳天なり。我れ至る所、吉祥福徳無量なり。主人悦んで請じ入る。婦人曰く、我に随従の婦人一人あり。必ず跡より来る是をも請ずべしと。主人諾す。時に一女来る。云々。。

●涅槃経に、この譬えがある。ある人の家に、とてもきれいな女性が入ってきた。その家の主人が「どなた様ですか」と尋ねると、その女性は、「私は、功徳天(くどくてん、吉祥天の別称)です。私が行くところはどこでも、吉祥(めでたいこと)、福徳(幸福と利益)が限りなく生じます。」と答えた。それを聞いた主人が、喜んで迎え入れようとすると、女性は続けて「もう一人女性が後から来ます。その方も必ず迎え入れてください。」と言った。主人は、それを約束した。時が経って、やがて一人の女性が来る。しかし、その女性は、容貌が醜く、みすぼらしい格好をしている。主人は「どなたですか」と聞いた。その女性は、「私は、吉祥天の妹の黒闇天です。私が行くところ総てで、不幸や災害が限りなく起こります。」と答えた。それを聞いた主人は、大変怒って、「すぐ出て行け」と言うが、女性は「前に来た吉祥天は、私の姉です。私たちは離れていてはいけないのです。姉を迎え入れられたのなら、私も迎え入れなければならないのです。私を入れてくれないならば、姉も出してください。」と言う。主人はしばらく考えていたが、吉祥天を家から出すことにした。すると、二人は連れ立って出ていった。
これは、仏教の根本的考え方の一つである生者必滅、会者定離のたとえである。死生は勿論、禍福、吉凶、損得皆同じである。元々、禍と福は一体であり、吉凶もそうである。一つの円を二つのことが構成しているのである。人は、通って行く所は近くが良いと言い、火事のときは遠くて良かったと言う。つまるところ、ものごとはそれに対応する人の場(場所、立場、考え方、生きてきた環境)によって、別々なものとして捉えられることがある、ということである。

夜話27
●禍福と言うが、禍と福との二つがあるのではない。元来一つのものである。卑近なものにたとえれば、包丁で茄子や大根を切るときには福であるが、間違って指を切ると、それは禍となる。包丁の柄を持って切るという動作は同じであり、目的のものを切るか、間違って指を切るかの違いしかない。この時、柄だけ有って刃が無ければ包丁ではなく、刃だけ有って柄が無くても、また、用を成さない。柄と刃が有って、包丁である。ただ、人の側の都合によって、指を切った時には災いを招いた悪となり、物を切る時には福や善となるのである。水を利用するときも同じである。同じ田に水を引くときでも、畔を築いて引けば田を潤して福となるが、畔を築かずに引き込めば、肥えた土を流すこととなり、大きな禍となる。同じ水でも、畔が有る時とない時で大きく効用が異なる。
財産は人が欲しがるものである。しかし、自分のためだけにそれを持つときには禍が訪れ、世の中のためにとそれを持つときには福が訪れる。
お金も同じである。貯めて社会のために用いるときは、福であるが、貯めても社会のために用いないときは、禍となる。
この道理を、良く知っておかなければならない。

夜話41
●吉凶、禍福、苦楽、憂歓等は、相対するものである。猫が鼠を獲る時は、楽の極みであるが、獲られた鼠の方は苦の極みである。同じようなことは無数にある。世の中のことには、このように相対することが多い。
その内でも、特に、人と人との間に起こることでは、勝ち負け、売り買い、利益、損失のように、一方が得をしたり、喜ぶとすれば、もう一方は損をしたり、悲しむことになる。だがそれも、やむを得ないことである。
これを嫌って、宗教の世界に入ったり、山に逃げ込み隠遁生活を送るものもいるが、それは世の中のためにはならない行為である。その志、その行いは、一見尊いように思えるが、世の中のためにならないことであるので、誉めるに当たらない。
そんなことをするよりも、両方が得をして、両方が喜べるような間柄を作ることに、知恵を働かせて行くべきである。そのような関係には、天地の道、親子の関係、夫婦の関係、それに農業における自然と人との関係の四つがある。しかも、これらの関係は、人間にとって基本的な関係である。このような関係を見て、同じような関係を作り出すことに、頭を使おう。
 

      気は長く心は丸く腹立てず 口慎めば命長かれ







一休和尚が長寿の秘訣を聞かれて、歌で回答したといわれている。

1.気は長く心は丸く腹立てず 口慎めば命長かれ
2.気は長く心は丸く腹立てず 人は大きく己小さく

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一休和尚が示した言葉なら師匠筋の『達磨大師』の言葉であろうともいわれる。

意味はそのまま、「気は長く、心は丸くもって、腹を立てず、口を慎め(特に人の悪口を言わなけれ)ば、命長かれ。」もしくは、「人には寛大に接し、己は小さく謙虚にすべし。」

「気は長く、心は丸く、腹立てず、人は大きく、己小さく」(大徳寺内大仙院)
「人は大きく、己は小さく、心は丸く、腹立てず、気は長く 口謹めば命長かれ」
                           (円覚寺)
「気は長く心は丸く腹立てず 己小さく人は大きく」   (鞍馬流剣術道歌)

上のように、京都・鎌倉の寺社などに出典をを尋ねることができ、会社の「社訓」や「標語」などとしても使われることがあるようだ。なるほど企業、とくに営業の「顧客第一」主義にも通じる。
 


     天地は万物の逆旅にして 光陰は百代の過客なり


A面は解答



B面は問
天地は万物を抱擁して安らげる旅籠だ。日月は永遠の旅人でひとたび去れば帰らない。百代とは永遠。無限の宇宙・永遠の時間であり、それに相対する時、人間がいかにちっぽけなものであるか、それを感じて不安になり淋しくなる。しかし、それでこそ与えられた命を愛おしんで精一杯楽しみ、また自分へのギフト・詩才をとことん発揮して、よりよき生を生き抜くのだ、と李白は歌う。
出典は李白「春夜宴桃李園序」(しゅんやとうりえんにえんするのじょ)
松尾芭蕉「おくの細道」の書き出しもこれを踏まえて「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」とある。
『月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。舟のうえに生涯をうかべ、馬の口をとらえて老を迎うる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいずれの年よりか片雲の風にさそわれて漂白の思いやまず……』 
そして奥羽の旅へ出かけた。結局はそれが芭蕉の人生に対するベストの解答になり、後世末永く愛される代表作をつくった。


我々はどこから来たのか ?
我々は何者か ?
我々はどこへ行くのか ?

フランスの哲学者、パスカルが提示した人間の本質への三つの問いかけ。
この問に李白も芭蕉も自分の精一杯の生き様で答えている。
 

     「べからず」の事




坂村真民
タンポポ堂三訓
おごるな
たかぶるな
みくだすな
※前の、「いじけるな、にげるな」は三訓に追加したく並べさせて頂いたもの。

安岡正篤
国を滅ぼす君主
国を滅ぼす君主というものは、きまって自ら驕り、自らを知恵あるとして、人を軽蔑するものである。
自らを驕れば人材をいい加減に取扱い、自らを知恵ありとすれば専制独裁をやる。相手を軽んずれば備えがなくなる。何事があっても、びくともしないという用意がなくなってしまう。
備えがないと禍を招き、独裁をやると地位が危うくなり、人材を軽んずるとすべてが塞がってしまう。そうして自ら亡んでしまう。
 

      親父の小言


全体

上段

下段
親父の小言
福島相馬藩双葉郡浪江町にある大聖寺住職が遺した言葉と言われる45の小言からの抜粋。
住職は石田梅岩の石門心学を勉強していたということで、その影響もあり、「家業は精を出せ」「たんと儲けてつかへ」などは梅岩の思想と相通じる言葉が採られている。
以下のオリジナルの言葉(x45)から始まり、全国に言い伝えられるうちに内容が変わったり、増減があったり、変化して伝えられるようになっている。すべてを守るのはたいへんなので、自分にできそうなもの、したいものを選択・再編して、刻むとよろしい。

火は粗末にするな/朝きげんよくしろ/神仏をよく拝ませ/不浄を見るな/人には腹を立てるな/身の出世を願へ/人には馬鹿にされていろ/年寄りをいたわれ/恩は遠くから隠せ/万事油断するな/女房のいうこと半分/子のいうこと八九はきくな/家業は精を出せ/何事もかまわずしろ/働いて儲けて使へ/借りては使うな/人には貸してやれ/女郎を買うな/女房を早く持て/難渋な人にほどこせ/生き物を殺すな/年忌法事をしろ/義理は必ず欠くな/ばくちは決して打つな/大酒は呑むな/大めしを喰うな/判事はきつく断れ/世話焼になるな/貧乏を苦にするな/火事の覚悟をしておけ/風吹きに遠出するな/水はたやさぬようにしろ/塩もたやすな/戸締まりに気をつけろ/怪我と災は恥と思へ/物を拾わば身につけるな/小商ものを値切るな/何事も身分相応にしろ/産前産後を大切に/小便は小便所へしろ/泣きごとは云うな/病気は仰山にしろ/人の苦労は助けてやれ/不吉は云うべからず/家内は笑ふて暮らせ
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「人には馬鹿にされていろ」
馬齢を重ね、定年後も正社員とは別の形態で、数年間も会社で働いていると、侮りを受けることがままあった。久しぶりに会ってまだ居たんですねとか、年齢を聞かれるとか。
こちらは、需要と供給の関係であって、別にしがみついてる訳じゃない、なんて心中呟いているが、侮りを受けているという感覚がどこかに残った。
それを飲み下して続けていると、このような言葉で自ら慰めることも、精神を安定させるには必要かもしれない。
つまり、「デクノボウトヨバレ」ることに安住する心構えというわけだ。
その他の言葉も含めて全体的に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に似た刻語になっているかと思う。

 

      強靭化




国土強靭化、国家強靭化、列島強靭化、様々な言い方がありますが、未曾有の国家的危機に見舞われている日本にいて、東日本大震災からの「ふるさと再生」を含め、何をすべきか。巨大地震や津波に負けない、強く、しなやかで強靭な国土をいかに作り上げるか、が問われています。復興、防災、国防から財源、デフレ脱出まで、日本版ニューディールなど、個々の力の結集が必要となっています。
※国土強靭化=「ナショナル・レジリエンス(防災・減災)」推進

■主唱者の一人である藤井聡京都大学大学院教授
「国土強靱化なんて、公共事業をやりたがっている人達がでっち上げた虚構の理屈」と言う意見を未だに目にすることがあります。
ですが、そうしたの雰囲気も以前と比べますと随分と変わってきたようで、例えば,朝日新聞(!)さんが行った世論調査では、「防災などの公共事業を全国で大幅に増やす国土強靱化」に賛成を示す割合が64%となりました。
これは、反対19%の実に三倍以上の方々が、「公共事業を全国で大幅に増やす」国土強靱化に賛成しているということですから、ホントに時代の空気は変わってきたのだなぁ....と感じます。

ただ、やはりこのアンケート調査の項目からも明らかな通り、国土強靱化といえば公共事業、あるいは、防災、というイメージが強いようです。ですから、それを推進することが、
デフレ脱却
産業競争力の増進
成長戦略
財政再建
イノベーションの促進

といった「経済政策」に直結するというイメージをお持ちの方は、未だ少ないように思います。
ホントにそれは残念なことなのですが、さらには、「強靭化」の前提に
適切な統治機構(いわゆる,道州制問題.ですね.)
適切な貿易政策(こちらはいわゆる、TPP問題.という奴ですね.)

が存在しているということをご理解しておられる方も、(一般世論の中では.)さらに限られているように思います。
なぜなら、「不適切」な統治機構が採用されるようになれば、リスク対応のための様々な事前事業も、リスクが生じた際の迅速かつ効果的な救援・復旧活動も、全く不可能になってしまうからです。
しかも、「不適切」な貿易政策が採用されるようになれば、日本国民が生み出した富や資産や技術が海外に流出したり、強靭化するアクティビティそのものが、当該貿易政策によって邪魔されてしまい,日本の国そのものが脆弱化し続けていくこととなってしまうからです。
ただし、以上に指摘した諸点以外にも、世間一般に見過ごされているこれら以上に重要な、「最も」重要だと言っても過言ではない、論点が、もう一つ残されています。
それは、「戦後レジームからの脱却問題」であります。
日本の国を真の意味で強靭なものにするということは,結局は,戦後レジームと呼ばれたものから脱却することそのものを意味しています。
なぜなら、今、日本の強靭化が求められているのは、日本が「戦後」において「脆弱化」したからであり、かつ、その脆弱化をもたらしたものが「戦後の体制=レジーム」に他ならないわけですから、日本を強靭化し、強い国を目指すのなら、「戦後レジームからの脱却」を果たす事が是が非でも求められるわけです。

そうである以上、日本という国家を強靭化せんとするのなら、「戦後レジームとは一体何なのか?」を徹底的な思想的、実践的次元で考え続け、如何なる意味において我が国は脆弱化せられてきたのかを深く深く理解することが何よりも必要となります。
そしてその思想と実践は必ずや、我が国の「独立自尊」の問題に行き当たることとなるでしょう。
「強靭化」を志す者は、まずはこの地平に一旦は降り立ち、そこで考えあぐねた「独立自尊」を軸に据えた思想でもって、それぞれの現場の脆弱性と戦い、強靭化を果たす国民運動を全面的に展開せねばならぬのではないか..と思います。

是非とも皆様も一度、そうした「強靭化の思想」に思いを馳せつつ、それぞれの現場での実践を、一つ一つお重ねいただければ、大変有り難く存じます、当方もこれからも是非ともその様な態度で、強靭化の思想と実践に身を委ねて参りたいと思います。



      人間はおっくうがる心を刻々に切り捨てねばならぬ






森信三
人間はおっくうがる心を刻々に切り捨てねばならぬ。そして歳をとるほどにそれが凄まじくならねばなるまい。

森信三の言葉にはドキリとさせられる事が多い。
この刻語と同様に下にあげた言葉にも魂が掴まれて引っ張りこまれたような趣があった。

■人間の生き方には何処かすさまじい趣がなくてはならぬ。一点に凝集して、まるで目つぶしでも喰わすような趣がなくてはならぬ。

■ 「随所作主」とは、人はどんな境遇の中にあっても、リンリン生きてゆける人間になることでしょう。 

■「一剣を持して起つ」という境涯に到って、人は初めて真に卓立して、絶対の主体が立つ。甘え心やもたれ心のある限り、とうていそこには到り得ない。

 


      日既暮而猶煙霞絢爛 (菜根譚)




洪自誠 「菜根譚」
前集199項
●日既暮、而猶烟霞絢爛。歳将晩、而更橙橘芳馨。故末路晩年、君子更宜精神百倍。
○日(ひ)既(すで)に暮れ、而(しか)も猶(な)お烟霞絢爛(えんかけんらん)たり。歳(とし)将(まさ)に晩(く)れんとし、而(しか)も更(さら)に橙橘芳馨(とうきほうけい)たり。故(ゆえ)に末路晩年(まつろばんねん)は、君子(くんし)更(さら)に宜(よろ)しく精神百倍(せいしんひゃくばい)すべし。
■陽が沈んでも、夕映えは美しく輝いている。年の瀬が来ても、橙(だいだい)や橘(たちばな)はさらに芳香を放っている。故に、晩年になってこそ、人は百倍の精神力を発揮すべきなのだ。もう終わりだという時期こそ、最後のチャンスがあり、頑張り次第で光り輝けるのだ。
 







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