「座右の銘」を木に刻むことをお勧めするために、四字熟語を中心とした「刻語」の自作例を掲載しているサイトです。

座右の銘を刻む、四字熟語を主に制作しています。

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      言葉と制作例 (目次)

         4. 仏の教え

      般若心経(はんにゃしんぎょう)



















●摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩タ?1、依般若波羅蜜多故、心無ケ?2礙、無ケ?2礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

?1=「タ」は土偏に旁は垂。
?2=「ケイ」は四冠に圭の文字。(罫からトを外した字)
○観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。受想行識もまたまたかくの如し。
舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。
無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。
菩提薩タは、般若波羅蜜多に依るが故に、心にケイ礙なし。ケイ礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。
三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰わく、
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

■全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な知恵の完成を実践していた時に、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
舎利子よ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象であり得るのである。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
このようにして、およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
舎利子よ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それ故に舎利子よ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域に至るまでことごとくないのである。
さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、おそれがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往けるものよ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。
ここに智慧の完成の心が終わった。
(訳は中村元著「大乗の教え」より)
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坂村真民
宇宙の愛と霊
信仰には学問、頭脳、財物、そんなものは一切いらない。大切なのは決定心だけである。これさえしっかり持って精進すれば、必ず神仏のお側に行くことができる。不生不滅、不増不減の広大な世界が展開してくる。宇宙の愛は平等にして差別などまつたくないからである。

二宮尊徳
道歌
生きしにと世のはかなさをよくみれば 氷と水と名のみかはりて
※不生不滅
増減は器かたむく水と見よ あちらに増せばこちら減るなり
※不増不減

夜話66
夫れ天地間の万物、眼に見ゆる物を色といひ、眼に見えざる物を、空といへるなり。空といへば何も無きが如く思へども、既に気あり。気あるが故に直ちに色を顕はすなり。例へば氷と水との如し。氷は寒気に依って結び、暖気に依って解く、水は寒に因って、死して氷となり、氷は暖気に因って、死して元の水に帰す。生ずれば滅し、滅すれば生ず。有常も有常にあらず。無常も無常にあらず、此の道理を、色即是空・空即是色と説けるなり。

夜話148
或問う「春は花秋は紅葉と夢うつつ寝ても醒めても有明の月」、とは如何なる意なるや。翁曰く、是は色即是空・空即是色、と云へる心を詠めるなり。夫れ色とは肉眼に見ゆる物を云ふ。天地間森羅万象これなり。空とは肉眼に見えざる物を云ふ。所謂玄の又玄と云へるも是なり。世界は循環変化の理にして、空は色を顕し、色は空に帰す。皆循環の為に変化せざるを得ざる是天道なり。
 

      延命十句観音経(えんめいじっくかんのんきょう)




観世音 南無仏       かんぜーおん なむぶつ
(観世音菩薩に帰依します)
与仏有因 与仏有縁     よーぶつうーいん よーぶつうーえん
(我々にも仏と同じ因果の法則があり、また縁でつながっています)
仏法僧縁 常楽我浄     ぶつぽうそうえん じょうらくがーじょう
(仏と法の縁によって、私たちは常に心を清らかにし、楽しく過ごせます)
朝念観世音 暮念観世音   ちょうねんかんぜーおん ぼーねんかんぜーおん
(朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます)
念念従心起 念念不離心   ねんねんじゅうしんきー ねんねんふーりーしん
(この念は仏心から起こり、また心を離れません)

このお経は、中国の南北朝時代(五世紀)に、ある将軍が軍事作戦の失敗から処刑されそうになった時に、夢のお告げから千回唱えて生き延びたことに端を発します。その後出世して八十二歳まで生きたことから、「何度もただ唱えるだけでご利益のあるお経」として広まりました。日本に普及させたのは、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師です。十句と短く、覚えやすく、霊験あらたかなお経と言われます。

 

      六波羅蜜(ろくはらみつ)




人間が完成に向かう為の六つの道筋となる「六波羅蜜」は原始仏教が大乗仏教になっていくところで出てきた考え方です。「波羅蜜」とはサンスクリットで「彼岸に至る」という意味で、日本語では「到達・完成」です。
「お彼岸」といいますが、「彼の岸」というのは理想の岸のことで、此岸ともいう現在の生活に対する理想の状態が「波羅蜜」です。
大乗仏教では、人間が完成していくためには六つの道筋があるといいます。

その一番目は「布施」、つまり「与える」というところからはじまるわけです。
原始仏教では八正道の「見る」が最初でしたが、大乗仏教になってくると「与える」ことが一番大事になってきます。与えるには何か資財が必要ですが、「無財施(資財がなくてもできる布施)」というものがあります。たとえば「ほほえみ・やさしさ・愛語」などで人をしあわせにする布施を高く評価します。

二番目は「持戒」。
「戒」とは「いましめ・決まり」ですから、「決まりを持つ」ということです。
決められたことは守っていくということ。戒には、いましめだけでなく「つつしむ」という意味もあります。

三番目は「忍辱」。
忍耐ですが、ただ耐えるというだけではありません。「忍」の字に言偏をつけると「認」という字になり、「認める」というニュアンスがあります。たとえば、書留や宅配便が来たときに認印を押します。この「認める」とは「確認する」という意味です。受取人があらかじめ決まっていて逃げ隠れできません。配達されたものを誰かに代わって受け取ってもらうことはできないんです。現に初期の経典は、「忍」を「認」の略字として用いていました。
ゆえに、忍辱とはただ辛抱するだけではなく、「運命」という考え方は仏教にはありませんが、災難など好ましくない事柄は宛名指名でやってくる。つまり「私が受ける災難は私への指名」であって、誰にも代わってもらえない、と確認するのが「認」、すなわち「忍」と同じ意味になります。
確認できれば、歯を食いしばってではなく、納得して耐えることができるでしょう。

四番目の「精進」は、八正道にもありましたが「励む」ということ。
一般にいう「精を出す」の語源です。

五番目の「禅定」は、八正道の最後の「正定」と同じで精神統一をします。
身心を安定することです。

六番目は「智慧」です。
大乗仏教では原始仏教よりもなお進んで、精神統一の先に「智慧波羅蜜」、智慧の完成というテーマが出てきます。
五つの波羅蜜はこの智慧の完成のための手段になり、智慧の完成が最終目的になるということです。

 

      念ずれば 花ひらく











坂村真民
念ずれば花ひらく
念ずれば/花ひらく/苦しいとき/母がいつも口にしていた/このことばを/わたしもいつのころからか/となえるようになった/そうしてそのたび/わたしの花がふしぎと/ひとつひとつ/ひらいていった

今は亡き国民的仏教詩人、坂村真民先生は母校宇和島東高校で教鞭をとられていた。
則(すなはち)が「レバそく」と教えられたのは同僚の兵頭保先生であった。漢文で例えば「念ずれば」は「念則」と書けばよいと教わった。したがって、四字熟語として「念則花開」でよいのだ、レ点のイメージで「開花」でいいか、と思って制作した刻語(一番下)もある。
ところが真民先生の本を少し読むと、これは八字十音の真言である、と書かれていた。読めればいいという訳じゃない、というのが判って修正した「かな交じり」である。
四字で世に出せば真民先生に天国からどやしつけられるかもしれない。いやそんな品のないことはされないが、困った生徒だと思われるのもうれしくない。

不思議
念じていたら必ず/そうなってゆく/体も そうなってゆく/周囲も そうなってゆく/一切が/そうなってゆく/そういうものを/不思議と言う

一心称名
念ずれば花ひらく/念ずれば花ひらくと/唱えればいいのです/ただ一心に唱えればいいのです/花が咲くとか/咲かぬとか/そんな心配はいりません/どうかあなたの花を/あなたの心田に/咲かせてください/必ず花はひらきます

森信三
そもそも世の中のことというものは、真実に心に願うことは、もしそれが単なる私心に基づくものでない以上、必ずやいつかは、何らかの形で成就せられるものであります。このことは、これを信ずる人には、必然の真理として実現するでしょうし、これを信じない者には、単に一片の空言として終るのです。

松下幸之助
祈る思い
みずから何もせずしてただ神仏にご利益を願うというようなことは、人間としてとるべき態度ではないと思う。また、そんな都合のよいご利益というものはあり得ないだろう。  
しかし人間がほんとうに真剣に何かに取り組み、ぜひとも成功させたい、させねばならないと思うとき、そこにおのずと何ものかに祈るというような気持が湧き起こってくるのではないか。それは神仏に祈念するというかたちをとる場合もあろうし、自分なりにそれに準ずるものを設定して願うという場合もあろう。そういうことは一つの真剣さの現われであり、またみずからの決意を高めるという意味からも、大いにあっていいことだと思う。

後藤静香
応答
なんじの願いを高めよ/なんじの願いをきよめよ/なんじの願いを深めよ/なんじの願いをひろめよ/私欲をはなれた願いならば/死ぬまで願いつづけよ/あきらめるからかなわぬ/応答を信ぜよ/正しき願いは実現する

感応(かんおう)
思えば黙っていても通ずる/思わねばいくら語っても通じない/いかに語るかを考慮(こうりょ)する前に/いかに思うかを省察(せいさつ)せよ/愛をかきたる雄弁(ゆうべん)は単なる空音であり/愛に輝く沈黙は真(しん)の雄弁である/感応の心をはなるるとき/真の師弟なく/真の友人なし

見つめよ
ただひと本の花といえども/根を見よ、枝を見よ/ずいを見よ、花弁を見よ/花粉をみよ、色彩を見よ/育てる心、愛する心を以て(もって)/深く深く静かに見つめよ/花の心にふれるとき/なんじ自らにふれ、友にふれ/すべての人にふれる/われとその精と相いだくとき/万有ことごとく語る

合体
花のこころを知り/花のこころに感じ/花といっしょに呼吸をしたい/さえだの折れるとき/わが手わが足の/いたみを共に感じたい/蝶といっしょに舞い/犬といっしょに走り/鳥といっしょに歌いたい

二宮尊徳
夜話205
古歌に「滝の音は絶へて久しく成りぬれど名こそ流れて猶聞こえけれ」とあり。(中略)おおよそ人の勲功は、心と体との二つの骨折に成る物なり。その骨を折って已まざる時は必ず天助あり。古語に「之を思ひ之を思ひてやまざれば、天、之を助く」と云へり。之を勤め勤めて已まざれば、又天之を助くべし。世間心力を尽くして、私なき者必ず功を成すは是が為なり。

金言集
桜は一年に一度花咲けども花の名を得て人に愛せらる。人も善事を為して花の名を取らずんばあるべからず。
 

      念彼観音力(ねんぴかんのんりき)




観世音とはいかなる菩薩さまか、経には、「無量百千万億の衆生あって、諸の苦悩を受けるに、是の観世音菩薩を聞いて、一心に称名するならば、観世音菩薩は即時に其の音声を観て、皆解脱を得ん。」とある。
信仰者に応じて観音様は自在にその力を示現されたといえる。「解脱を得る」とは信仰者の自証であり、自覚。この自証ないし自覚は、衆生にもとより具わっている仏性(観音力)の開顕である。
観音経の原文
妙法蓮華經観世音菩薩普門品偈
世尊妙相具/我今重問彼/佛子何因縁/名為観世音/具足妙相尊/偈答無盡意/
汝聴観音行/善應諸方所/弘誓深如海/歴劫不思議/侍多千億佛/發大清浄願/
我為汝略説/聞名及見身/心念不空過/能滅諸有苦/假使興害意/推落大火坑/
念彼観音力/火坑変成池/或漂流巨海/龍魚諸鬼難/念彼観音力/波浪不能没/
或在須彌峰/為人所推堕/念彼観音力/如日虚空住/或被悪人逐/堕落金剛山/
念彼観音力/不能損一毛/或値怨賊繞/各執刀加害/念彼観音力/咸即起慈心/
或遭王難苦/臨刑欲壽終/念彼観音力/刀尋段段壊/或囚禁枷鎖/手足被[紐]械/
念彼観音力/釋然得解脱/呪詛諸毒薬/所欲害身者/念彼観音力/還著於本人/
或遇悪羅刹/毒龍諸鬼等/念彼観音力/時悉不敢害/若悪獣圍繞/利牙爪可怖/
念彼観音力/疾走無邊方/[虫元]蛇及蝮蠍/気毒煙火燃/念彼観音力/尋聲自回去/
雲雷鼓掣電/降雹[樹]大雨/念彼観音力/應時得消散/衆生被困厄/無量苦逼身/
観音妙智力/能救世間苦/具足神通力/廣修智方便/十方諸國土/無刹不現身/
種種諸悪趣/地獄鬼畜生/生老病死苦/以漸悉令滅/真観清浄観/廣大智慧観/
悲観及慈観/常願常瞻仰/無垢清浄光/慧日破諸闇/能伏災風火/普明照世間/
悲體戒雷震/慈意妙大雲/[樹]甘露法雨/滅除煩悩焔/諍訟經官處/怖畏軍陣中/
念彼観音力/衆怨悉退散/妙音観世音/梵音海潮音/勝彼世間音/是故須常念/
念念勿生疑/観世音浄聖/於苦悩死厄/能為作依怙/具一切功徳/慈眼視衆生/
福聚海無量/是故應頂禮

爾時持地菩薩。即従座起。前白佛言。世尊。若有衆生。聞是観世音菩薩品。
自在之業。普門示現。神通力者。当智是人。功徳不少。仏説是普門品時。
衆中八万四千衆生。皆發無等等。阿耨多羅三藐三菩提心。 
 

      観音経




『観音経』の最後にある一節。(上段、「観音経」のピンク文字の部分)

具一切功徳 一切の功徳を具し
慈眼視衆生 慈眼をもって衆生を視みたもう
福聚海無量 福聚の海は無量なり
是故応頂礼 是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし

観音菩薩は、一切の功徳をそなえて、慈悲の眼によって生ける者たちを見る。その福徳は海がごとく無量である。

【読】ぐーいっさいくーどく、じーげんじーしゅーじょう、ふくじゅーかいむーりょう、ぜーこーおうちょうらい。

【訳】あらゆる功徳を身につけ、慈しみの眼で生きとし生けるものを見守る。その福徳は海のように豊かではかることもできない。このゆえに心の底から礼拝しなければならない。


観音菩薩は優れた威力、神力を持っておられ、観音を信じ念じ、一心に観音の御名を唱えるならば人生のあらゆる苦難、苦厄を除いてくださり、勇気を与えてくださることが観音経に説かれている。南無観世音菩薩と声を出して唱えることは観音信仰の第一歩であり、すべてかもしれない。「観音菩薩は一切の功徳を持っておられ、慈悲の眼をもって衆生をご覧になっておられる。そして一切の衆生を救済されようとしておられる。観音菩薩とは大海のように無量無限の福徳を持って衆生のために慈悲を垂れ給う存在であるからである。だからこそわれわれは信心を発して帰命し礼拝し南無観世音菩薩と御名を唱え信仰に励むべきである」という意味。


      廻施衆生生彼国 (えせしゅじょうしょうひこく)




施しを衆生に廻らせて、かの国に生まれいずるよう念じる。

中村天風
世の先覚者として
今や、世はまさに複雑混沌の時勢である。そして、正当の人生自覚をもたぬ人々は些細なことにも心の平静を失い、憤怒の激情や煩悶や憂鬱の劣情に陥りやすい。 したがって、すなわちこのときこそ、人生真理をよく理解し、かつ尊重するわれらが人の世の正しい先覚者となって、できる限り平和に活きる人生のときの長からんことこそ、真の人生の本来の面目であることを、事実の行為を模範として明示すべきである。またそれをわれらの最高の理想とすべきである。

二宮尊徳
金言集
人と生れて衆生を助くる道を勤めざれば、人にして人にあらず。 譲り助くることを拡(おしひろ)めなば、天下も以て治めつべきなり。

往相と環相
世話149
神儒佛の書、数万巻あり。それを研究するも、深山に入り座禅するも、斯道を上り極むる時は、世を救ひ、世を益するの外に道は有るべからず。(中略)たとひ学問するも、道を学ぶも、此処に到らざれば、葎蓬の徒にはい広がりたるが如く、人世に用無き物なり。
※環相とは布施、奉仕、貢献である。 、
 

      ブツダのことば 「慈しみ」


こんな色づかいをすると中村先生に叱られるかもしれないが。


中村元先生と墓碑
    ブッダのことば 
      「慈しみ」  
  一切の生きとし生けるものは
  幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ
  一切の生きとし生けるものは幸であれ
  何ぴとも他人を欺いてはならない
  たといどこにあっても
  他人を軽んじてはならない
  互いに他人に苦痛を与える
  ことを望んではならない
  この慈しみの心づかいを
  しっかりと たもて
「 慈しみ 」 (中村元訳『ブッダのことば』より)
  一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
  いかなる生物生類〈いきもの しょうるい〉であっても、おびえているものでも、強剛なものでも、ことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものものは、幸せであれ。
  何ぴとも他人をあざむいてはならない。たといどこにあっても他人を 軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
  あたかも、母が己が独り子を命をかけても まもるように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし。
  また全世界に対して無量の慈しみのこころを起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。
  立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。

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中村元の世界  
〜「慈しみ」の詩〜
「生きとし生けるものは、みな美しき仏の種を宿す」は、「仏教のこころ」を最もよく言い表していると思っています。同じ趣旨の詩句が、紀元前3世紀頃にインドで著された『スッタニパータ』という経典の中にみられます。それは「一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」で始まる「慈しみ」の詩と呼ばれるものです。この経典は、インド哲学の世界的な大家である中村元(1912-1999)によって、インドの昔の俗語であるパーリ語の原典から、やさしい日本語に翻訳されて、『ブッダのことば』の題名で岩波文庫から出版されております。
 これは現代的に見れば、生きものとの共生の詩であって、生物多様性の尊重を説いている詩といえますし、さらには、21世紀に入ってもとどまる所を知らない人間同士の戦争や紛争に対する反戦の詩でもあるといえます。
 紀元前に説かれた教えが、21世紀の現代でも通じる真理であったことは驚きです。中村元は、「この『ブッダのことば』は、多数の仏典のうちでも、最も古いもので、仏教の開祖・ゴータマ・ブッダ(釈尊)の言葉に最も近い内容を持つものであり、仏教の起源をたずねるためには、他のどの経典よりも重要な経典です。ここには、仏教が教団として発展する以前の簡単素朴な教えが示されているだけであって、ブッダはこのような単純ですなおな形で、人として歩むべき道を説いたのです。」と述べられています。スリランカなどでは結婚式で、僧侶がこの「慈しみ」の詩などを唱えて祝福するといいます。このように、仏教は「いかに生きるか」という個人個人の人生の指針を与えてくれるものです。
 中村元は一般人にもわかる日本語で古代インドの仏典を直接翻訳されて、仏教の本来の姿や教えを多くの人々に広めています。混迷する現代社会の諸問題を解決する糸口を得ることになると思います。
 

     慙愧(ざんき)




人の悪いところはよく気が付くけれども、全く自分自身の姿が見えていなかったということに気付かされることがある。
まことにお恥ずかしい自分自身であったということが分かってくる。仏教用語である「慙愧」のこころが起こってくる。

親鸞聖人は『教行信証』という書物の中で、

「慙」は人に恥ず、
「慙」は内にみずから羞恥す、
「慙」はみずから罪を作らず、

「愧」は天に恥ず。
「愧」は発露して人に向かう。
「愧」は他を教えてなさしめず。

これを「慙愧」と名付く。

「無慙愧」は名付けて「畜生」とす、と書かれている。
 

     摂取不捨(せっしゅふしゃ)





阿弥陀仏がこの世の衆生しゅじょう、生きとし生けるものすべてを、その光明の中に救いとって見捨てないこと。
「摂取」はその慈悲心で衆生を仏の世界に救い上げること。「不捨」は仏がどのような生き物をも見捨ててしまうことはないということ。阿弥陀仏の救済をいう。
出典
: 『観無量寿経かんむりょうじゅきょう
 

     罪悪深重 煩悩熾盛(ざいあくじんじゅう ぼんのうしじょう)




罪悪深重とは、人間の持つ深く重い罪という意味。
弥陀の本願には、老少善悪の人を選ばれず、ただ信心を旨とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重 煩悩熾盛の衆生をすくわれんがための願にまします。
煩悩とは、肉体や心の欲望、他者への怒り、執着など、人間の身心の苦しみを生みだす精神のはたらき。熾盛とは、火の燃えあがるように勢いの盛んなこと。

世界の内に平安和楽を欠き、憎悪・嫉妬・闘争を招き、互いに苦しませ悩ませ合う。無明渇愛の根深い煩悩から、あらゆる修羅場の必然が現出する。
自分が罪悪深重、煩悩熾盛の凡夫であると、心から感じた時、懺悔の心が湧き起こり、真実との結びつきの大切さに目覚め、痛切にそれを願うようになる。
発心の糸口がこの言葉。
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五木寛之
日本人の罪の意識
そもそも、ヨーロッパやアメリカで罪の意識というものが成立するずっと前から、日本では法然や親鸞が「罪業深重のわれら」と言い、人間はすべて罪人という深い認識に立って、念仏信仰が生まれています。
西洋に先んじて、罪の意識を極限まで追求したのは日本人なのだという事実は、きちんと振り返って見る必要があるでしょう。
 

     穢悪汚染 虚仮諂偽(えあくおぜん こけてんぎ)




一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん=きたない・わるい・あくにそまった)にして、清浄(しょうじょう)の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ=いつわり・ごまかし・だまし・へつらい)にして真実の心なし。

これも自分が汚い、嘘偽りの多い、罪深い人間であることに気付いた時の自分を表す、気付きと自責・反省の言葉。そのような自分であることを感じた時、懺悔の心が湧きあがって、改心への願いが生じる言葉に。そのためこのような激烈な言葉を足がかりにすることは意味のあることだろう。

「虚仮」を使った言葉に、聖徳太子の遺したとされる、「世間虚仮 唯仏是真」(せけんこけ ゆいぶつぜしん:この世は常ならぬうつろいゆく無常の物語のようなもので、ただ仏の心だけが真実である)がある。
 

     南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)










サンスクリット語でナームは「帰依・帰命します」、アミターバは「無限の空間」、アミターユスは「無限の時間」。
私は「はかることのできない寿命の仏」「はかることのできない光明の仏」を信じ、帰依します、というもの。

阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号「なもあみだぶ」に収めて衆生に回向(自分自身の積み重ねた善根功徳を相手にふりむけて与えること)している
『一遍聖絵』に「なもあみたふ」と表記されているので、鎌倉期には「なもあみだぶ」と発音していたようである。

五木寛之
人は生まれ、無意識から意識の世界へ大きく成長していき、意識の世界から無意識のふるさとへとふたたび回帰していく。意識はへっていくけれども、無意識は増えていくのだと私は考えています。



 



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