「座右の銘」を木に刻むことをお勧めするために、四字熟語を中心とした「刻語」の自作例を掲載しているサイトです。

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      言葉と制作例 (目次)

      1.漢字熟語

    1−3.五字以上〜熟語

      歩々是道場




歩々是道場 ほほこれどうじょう
素直な心さえあれば、どこでも学びの場となる。道場だけで修業をするのではない。日々の暮らし、言動のすべてが道場であり、修行である。出典「維摩経」「趙州録」
別に、維摩居士が言ったと言われる言葉として「直心是道場」がある。これも、まっすぐ素直な心をもっていれば、どんなところでも道場、すなわち修業の場である、の意。
修行の場はそれぞれの心の中にあるのだから、場所など関係ない。行為のひとつひとつが修行であり、雑念を払って、無心に打ち込めば、どんな条件下でも自分を磨くことができるという教え。
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坂村真民
いきいきと生きよ
「いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない」

松下幸之助
会社は道場  
仕事というものは、やはり自分でそれに取り組んで、体得していかなければならないものだと思う。しかし自得していくには、そのための場所というか、道場とでもいうものが必要であろう。  
ところが幸いなことにその道場はすでに与えられている。すなわち、自分の職場、自分の会社である。あとはその道場で進んで修業しよう、仕事を自得していこうという気になるかどうかということである。しかも会社という道場では、月謝を払うどころか、逆に給料までくれるのだから、こんな具合のよい話はない。このような認識に立てば、仕事に取り組む姿も、謙虚に、しかも力強いものになるはずである。

修養に場所を選ぶな
人は若い間の心がけのいかんにより、後にずいふん差の生ずるものである。もし若い時代に自己実力の養成に励まず、修養に努めなかったならば、必ず後年、後悔するときがくると思う。
しかるに若い人の間で「この仕事は自分の性分に合わない、あの主任の下ではどうも働き甲斐がない」と、不足をもらす人がある。これは自己中心の物の考え方の弊害であろう。 真に自己の適所を見出すまでには、いろいろな経験を積まなければならない。また性格、意見の異なった指導者の下で自己を磨くことによってこそ、かえってよりよく修養が得られるものであることを、深く知らなければならないと思う。

後藤静香
徳業
命ぜられたことをする/囚人も同様である/引きずらるれば/牛も馬も車をひく/頼まれたこと以上が人間の領分/役目以上が徳業の世界である/仕事は一段上をゆけ/席次は一段下につけ/自由を求むる人の子よ/なんぞ徳業の自由に生きざる
 

      一寸虫五分魂




一寸の虫にも 五分の魂


「見返したい」というのは、あまり高尚な心の動きとは言えないが、どうも自分を動かす強いエネルギーにはなるようだ。
たとえば、復讐譚にそれが顕著に現れる。モンテクリスト伯を待たずとも、ドラマを引っ張る要因となる。
一寸虫五分魂、捲土重来、敗者復活、惨めな立場から逆転したい、という意欲。
正当な元気の素かどうか。暗い情熱を力と頼むようでもある。
怨みつらみが行動の元素になるのはどうなんだ。うーん、素にさえなればよいのではないか。
怨みつらみは志を果たした後すっぱり解消すれば済む事だ。赦し赦されればいいことだ。恩讐の彼方で大団円を果たせば、要因は問わない。素をどこに求めれば大きな元気が出るかということに過ぎない。
志を果たせず、怨みつらみを抱いたままで生きていくことはよろしくない。どこかで納得して水に流すという過程が必要になる。目には目を、をキリストが捨てる理由だ。

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同じ言葉は西洋にもある。
Even a worm will turn.《毛虫でも向かってくる》
意欲や意志は誰にもあるもので、それを無視したり踏みにじったりすれば、どんな人間でも向かってくる。反発する魂を持っている。これを座右に置いて虫の立場となり、反発力をエネルギーと化すことができるならば、必ずしもマイナスのエネルギーとして遠ざける必要はない。
 

      無一物無尽蔵









無一物 むいちぶつ 無尽蔵 むじんぞう
無の中にあらゆる森羅万象が存在するというのが、仏教の考え方で、北宋の詩人、蘇軾は「ここには何もないようにみえるが、花があり、月があり、楼台がある。十分満たされているのではないか。」と詠んでいる。
■無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り
■若し閑事の心頭にかかる無くんば すなわち是れ人間の好時節
利己心を捨て、何ものにも執らわれない境地に達して、心を空しくするならば、そこには尽きることのない無限の豊かさが満ちている。無の中に有、虚の中に実を観る、色即是空。空即是色。
南宋禅、六祖慧能も「本来無一物」と悟りの偈を遺した。空の境地とは、菩提もなく煩悩もなく、ましてや身も心もない、「無一物」である。その空の中にこそ、尽きることのない無限の豊かさを観ることが出来ると説く。
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坂村真民
花のように
何も持っていないのが/一番いい/ねらわれる心配もなし/焼かれる不安もない/無一物だから/無尽蔵なのだ/一切皆空/咲いて散りゆく/花のようにあれ

後藤静香
与えよ
与えよ/報いを求めず、ただ与えよ/与えても与えても残りがある/与えることだけに努力せよ/反対に/与えられ与えられて/いくらでもふえてくる/与えつくす積もりで/与えてみよ/死ぬまでかかっても/与えつくせぬ豊富におどろく

二宮尊徳
報徳記
無一物
本来人の生るる時は、一物も持参する者に非ず、又死する時も持ち往く者に非ず。裸にて帰る者なり。しかるを、わが物となすは、知らず、無を悟らざる人なり。
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蘇軾の代表的詩文「赤壁の賦」にある造物主の「無尽蔵」
名月の夜、舟遊びをする蘇東坡と友人。酒を酌み交わし、詩を吟じ、笛を吹く。
自分たちは、広大な長江の悠久に比べて、何と小さくはかない存在だろう、と無常を嘆く友人。
対して蘇軾は、変化するという視点に立てば万物変ぜざるはないが、変化しないという視点に立てば万物は永劫である。月は満ち欠けするが結局元の満月に戻る、全ての物に所有権がある人間界と違い、清風や名月、自然界はいくら味わっても禁じられもせず尽きることもない。人間の命もまたとこしえに受け継がれてゆくのではなかろうか。この造物主の無尽蔵を大いに味うべし、と説き、喜んだ友人とまた飲みなおす。

※「前赤壁賦」より
逝く者は斯の如くなるも、而も未だ嘗て往かざるなり。盈虚する者は彼の如くなるも、而も卒に消長すること莫きなり。蓋し其の変ずる者よりして之を観れば、則ち天地も曾て以て一瞬なる能はず、其の変ぜざる者よりして之を観れば、則ち物と我と皆尽くること無きなり。而るに又何をか羨まらんや。且つ夫れ天地の間、物には各々主有り。苟くも吾の有る所に非らずんば、一毫と雖も、取ること莫し。惟江上の清風と山間の明月とのみは、耳之を得て声を為し、目之に遇うて色を成す。之を取れども禁ずる無く、之を用いるも竭きず。是れ造物者の無尽蔵なり。而して吾と子との共に適する所なりと。

■去り行くものはこの水のようであるが、まだ流れ去ってなくなったことはない。満ち欠けするものはあの月のようだが、結局は消えたり大きくなったりはしない。思うに変化するものから見ると、この天地ですら一瞬も同じ状態ではありえない。逆に変化しないものから見ると、万物も人間も尽きることはない。全ては悠久だ。だから何を羨ましがることがあろうか。そもそも天地の間にあるものは、それぞれ所有者がある。仮にも自分が所有するものでなければ、一毛と言えども取ってはならない。ただ長江の上を吹く清々しい風と、山あいの明月だけは、耳に入れば音楽となり、目に映れば美しい景色となる。これらを取っても禁じるものはなく、使っても尽きることが無い。これは万物を造った造物主の尽きることの無い蔵だ。そして私と君と共に心に叶うものである。

 







 



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