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     「言葉と制作例」 四字熟語
   敬天愛人(けいてんあいじん)















常に修養を積んで天をおそれ敬い、人の気持ちを思いやる心境に到達することが大切という教え。

坂村真民
天を仰いで
心が小さくなった時は/天を仰いで/大きく息をしよう/大宇宙の無限の力を/吸飲摂取しよう

森信三  
「救い」とは「自分のような者でも、尚ここにこの世の生が許されている」-という謝念でもあろうか。そしてその見捨てない最後の絶対無限な力に対して、人びとはこれを神と呼び仏と名づける。

敬とはどういうことかと申しますと、それは自分を空しうして、相手のすべてを受け入れようとする態度とも言えましょう。ところが相手のすべてを受け入れるとは、これを積極的に申せば、相手のすべてを吸収しようということです。 ところが、相手のすべてを吸収しようとすることは、これをさらに積極的に申せば、相手の一切を奪わずんば已まぬということだとも言えましょう。ですから真に徹底した敬というものは、生命の最も強い働きに外ならぬわけです。  

ある時
悲しみの極みといふもなほ足りぬいのちの果てにみほとけに逢ふ

後藤静香
人間が近い
人間は/自然を楽しむ/人間は/神仏をたよる/しかし人間には
/人間がいちばん近い/人間は/人間の愛を求める

愛すれば
愛すれば/話が解る/愛すれば/心が通う/愛すれば/機転がきく/愛すれば/気苦労なし

自力目さむ
わが意思にて/わが心臓を動かし得ず/わが眼にて/わが眼底の神秘を見得ず/いのちを与えたるもの/刻々のわれをまもる/絶大無限の他力を悟るとき/自力はじめて目さむ

安岡正篤
敬する心
人間が人間たる意義を求めるならば、先ず敬するという心を持つことである。人間が現実に留まらないで、限りなく高いもの、尊いもの、偉大なるものを求めてゆく、そこに生ずるのが敬という心である。この敬の心が発達してくると、必ず相対的に自分の低い現実を顧みてそれを恥ずる心が起こる。 フィヒテが児童教育を論じて、子供は家にあって愛だけで育つと思ったら大間違いで、愛と同時に敬を求める。従って、愛の対象を母に、敬の対象として父に求めていると痛論している。 人間が進歩向上する一番大切なことは敬する心を発達させることであり。それによって始めて恥を知ることができる。

敬は道
敬という心は、言い換えれば少しでも高く尊い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心である。したがってそれは同時に自ら反省し、自らの至らざる点を恥ずる心になる。省みて自ら懼れ、自ら慎み、自ら戒めてゆく。偉大なるもの、尊きもの、高きものを仰ぎ、これに感じ、憧憬れ、それに近づこうとすると同時に、自ら省みて恥ずる、これが敬の心である。東洋では等しくこれを道という。

人を愛する
富や位や才智などは結局人の愛に値しない。要するに徳を補助するにすぎないものである。真に人を愛すればその人の徳を厚くするように仕向けてやるべきである。つまらぬ人間は、人を愛するにも一時の間に合わせ(姑息)ですませる。金があれば金をやり、権力があれば権力を与え、それが愛する相手のためにどうなるかは深く考えない。

中村天風
愛情とは尊敬し合うことである
そもそも正しい愛情とは、お互いが貴い生命をもってこの世に存在しているという厳粛な事実を認め、心底が尊敬し合うことをいう。この敬虔な気持ちさえあれば、愛情に利己主義や利害関係が入り込む余地など絶対にありはしない。人の生命活動の消息を静かに凝視し、生命の神秘をしかと感じたなら、尊敬し合う気持ちが自然とわいてくるはずである。 さても本当に明るい世の中を作るには、まずはお互いに正しく愛し合うことである。

佐藤一斎
己を修むるに敬を以てして、以て人を安んじ、以て百姓を安んず。壱に是れ天心の流注なり。

言158
天下の人民 敬は天心の流れそそいだもの
 

    春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)





春風駘蕩 しゅんぷうたいとう
何事もなく平穏なことや、人の態度や性格がのんびりとしていて温和なこと。のどかに吹く春風。


松下幸之助
春を楽しむ心  
草木は芽を出し、蕾はほころびて伸び伸びと成長する春の季節。春はまさに万物成長のときと言えるでしょう。  私たちもこんな春を迎えて、大いにこれを楽しみ、大いに成長していかなければならないと思います。春を楽しむ心は、人生を楽しむ心に通じます。長い人生には、ときには不愉快なこともあり、面白くないときもありますが、春を楽しむように人生を楽しむ心があるならば、やがてまた春のそよ風のように、心もやわらいで、生き甲斐も感じられてきます。そして野山の樹々が一年一年と年輪を加えていく如く、お互いの心も、去年よりも今年、今年よりも来年と一年一年成長していくと思うのです。

後藤静香
春の海
おおらかに、ゆるやかに/音なくうねる春の海/いつもこんな心でいたい/やわらかく、あたたかく/ひかり流るる春の海/いつもこんな心でいたい/おおいなる平和のすがた/ゆたかなる恵みのおもい/げにも貴き黙示(もくし)かな

洪自誠 「菜根譚」
前集62項
●学者有段兢業的心思、又要有段瀟洒的趣味。若一味斂束清苦、是有秋殺無春生。何以発育万物。
○学ぶ者は、段の兢業(きょうぎょう)の心思(しんし)有り、又段(まただん)の瀟洒(しょうしゃ)の趣味有るを要す。若し一味に斂束清苦(れんそくせいく)なるにみならば、是れ秋殺(しゅうさつ)ありて春生(しゅんせい)無きなり、何を以てか、万物を発育せん。
■学問を志す者は、自分を戒める気持ちを持ったうえで、拘りのない心が必要だ。もし、自分を戒め過ぎて、赤貧生活をしているようでは、落ち葉散る秋のようで、萌えぎ多き春には遠く、全てを活かすことは出来ない。つまり、学問で大成しようとするなら、自分を戒め過ぎず、そこそこの生活を楽しみ、周囲の者を応援するような気持ちがなければ、大したことの無い人間で終わってしまうということ。

前集73項
●天地之気、暖則生、寒則殺。故性気清冷者、受享亦凉薄。唯和気熱心之人、其福亦厚、其沢亦長。
○天地の気、暖なれば則ち生じ、寒なれば則ち殺(さい)す。故に性気(せいき)の清冷なる者は、受享(じゅきょう)も亦た凉薄(りょうはく)なり。唯だ、気が和らかく、心熱つき人のみ、其の福も亦た厚く、その沢(うるおい)も亦た長し。
■大自然の「気」が、暖かければ生まれ、寒ければ死ぬ。だから、人の「気」が冷たければ、受ける幸福も少ない。よって「気」が穏やかで、暖かい人だけが、恵みを長く味わえるのだ。つまり、幸福は穏やかな者に実現するということ。

前集97項
●家人有過、不宜暴怒、不宜軽棄。此事難言、借他事隠諷之、今日不悟、俟来日再警之。如春風解凍、如和気消氷、纔是家庭的型範。
○家人に過ちあらば、宜しく暴怒(ぼうど)すべからず、宜しく軽棄(けいき)すべからず。此の事、言い難くば、他の事を借りて隠(いん)に之を諷(いき)め、今日悟らざれば、来日を俟(ま)ちて再び之を警(いまし)めよ。春風の凍(こお)れるを解くが如く、和気の氷を消すが如く、纔(わずか)に是れ家庭の型範(はんけい)なり。
■家族の誤りに、ことさら激しく怒ってはならないが、軽視してもいけない。言い難いことなら、暗示をもって注意すべきで、それに気が付かなければ、後日、機会を改めて、再び暗示すべきだ。この方法は、春の暖かい風が氷を溶かすようなもので、家庭円満の基本形なのだ。つまり、感情で付き合う事の多い家族は、直接的に怒れば、直接的に反応し、双方が引っ込み辛くなるので、誤りや注意は気長に優しく解るように伝えのが家庭円満のコツだということ。

前集161項
●念頭寛厚的、如春風煦育。万物遭之而生。念頭忌刻的、如朔雪陰凝。万物遭之而死。
○念頭の寛厚(かんこう)なるは、春風の煦育(くいく)するが如し。万物は之に遭いて生ず。念頭忌刻(きこく)なるは、朔雪(さくせつ)の陰凝(いんぎょう)するが如し。万物は之に遭いて死す。
■気持ちがゆったりとして豊かな人は、春の風が万物に息吹を吹き込み育てるように、恩恵を受けると成長する。一方、残忍で冷酷な心の人は、北国の雪が万物を凍りつかせてしまうように、災いに遭遇すればみな枯れて死んでしまう。つまり、人間の価値は心の広さ温かさであり、それのみが全てを発展させる極意だということ。

後集92項
●当雪夜月天、心境便爾澄徹、遇春風和気、意界亦自沖融。造化人心、混合無間。
○雪夜(せつや)の月天(げってん)に当たっては、心境便爾(すなわ)ち澄徹(ちょうてつ)す。春風の和気に遇えば、意界(いかい)も亦自から沖融(ちゅうゆう)す。造化人心、混合して間(へだて)なし。
■積雪の日の月明かりは、心を清らかで澄み切らせる。春風の穏やかな空気に触れれば、気持ちはやわらぎ和む。大自然の心と人間の心は分かれていて分かれられない関係で、隔たりはない。つまり、心身一如であり、心物一如。人間は自然の一部であり、全体でもある。

後集132項
●天運之寒暑易避、人世之炎凉難除。人世之炎凉易除、吾心之氷炭難去。去得此中之氷炭、則満腔皆和気、自随地有春風矣。
○天運の寒暑(かんじょ)は避け易きも、人の世の炎凉(えんりょう)は除き難し。人世の炎凉(えんりょう)は除き易(やす)きも、吾が心の氷炭(ひょうたん)は去りがたし。此の中の氷炭(ひょうたん)を去り得ば、則ち満腔(まんくう)皆和気にして、自から地に随がいて春風有り。
■四季が巡らせる寒さ暑さは簡単に避けることが出来るが、人の世の熱さ冷たさは無くす事が難しい。人の世の熱さ冷たさは簡単に無くすことできるが、自分の心の熱し易さや冷ややかさは無くし難い。この心の中の熱し易さや冷ややかさを無くすことが出来れば、胸中は穏やかで自然に春風が吹いている心境になる。
 

   一期一会(いちごいちえ)













一期一会 いちごいちえ
出会いは常に生涯一度限りである心算で臨む事が、心からのもてなしにつながること。人との出会い、その機会を大切にすること。 大老井伊直弼が茶道の心得を記した「茶湯一会集」から。
人間誰しも明日が必ず来るという保証はない。今日現在は二度と来ない。人生の一瞬の出会いを精一杯生きた証しとして、誠心誠意、相手をおもてなしすることで、より豊かな人生になる。

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曽野綾子
神様は、不要な人間をお創りになるほど愚かな方ではない。
一人ひとり、かけがいのない存在として、この世にたったひとりの尊い存在として誕生させてくださったのだ。

坂村真民
一期一会
思いもかけない人と出会い/思いもかけない人の手を握り/一期一会の喜びと/一期一会の悲しみをする/時には人ではなく/木であったり/石であったりもする/そして時には人よりも/木や石の方が/もの言わぬだけに/無限の感動を覚え/涙のにじむことがある/無常といい/永遠といい/命のやりとりのせつない尊さよ

出会い
すべては出会いである/川も出会いの喜びに/音をたてて流れてゆく/その川のべに立っていると/わたしは師にめぐりあった喜びを/川と共に語りたくなる

めぐりあい
大いなる一人のひととのめぐりあいが/わたしをすっかり変えてしまった/暗いものが明るいものとなり/信ぜられなかったものが信ぜられるようになり/何もかもがわたしに呼びかけ/わたしとつながりを持つ親しい存在となった/めぐりあい/人生は深い縁(えにし)の/不思議な出会いだ

めぐりあいのふしぎにてをあわせよう
子を抱いていると/ゆく末のことが案じられる/よい人にめぐりあってくれと/おのずから涙がにじんでくる

松下幸之助 
苦情から縁がむすばれる
需要家の方からいただくおほめの手紙はもちろんありがたいけれども、苦情の手紙をいただくのもありがたいことだと思います。かりに苦情を言わない方はそのまま「あそこの製品はもう買わない」ということで終わってしまうかもしれません。しかし不満を言ってくださる方は、そのときは「もう買わない」というつもりでも、こちらがその不満を丁重に扱って、不満の原因をつかむとともに、誠心誠意対処すれば、その誠意が通じ、かえって縁がむすばれる場合が多いと思います。
 ですから、苦情を受けたときは「縁がむすばれる好機」と考え、一つの機会として生かしていくことが大事だと思うのです。

縁あって  
袖振れ合うも他生の縁――という古いことわざがあるが、人と人とのつながりほど不思議なものはない。その人が、その会社に入らなかったならば、その人とはこの世で永遠に知りあうこともなかっただろう。
 考えてみれば人びとは大きな運命の中で、縁の糸であやつられているとも思える。こうしたことを思うと、人と人とのつながりというものは、個人の意志や考えで簡単に切れるものではなく、もっともっと次元の高いものに左右されているようである。
 であるとすれば、お互いにこの世の中における人間関係をもう少し大事にしたいし、もう少しありがたいものと考えたい。

森信三
「出逢い」の哲理
「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。 しかも一瞬早すぎず、 一瞬遅すぎないときに」 これは「出逢い」のうちに秘められた、神意というか、天意のめぐみについてその哲理の表現でありますとともに、一見、偶然と見られる事柄も、すべて必然性の作用によるということです。

中村天風
因縁
このたくさんの数多い人の中から知り合いになったということは、とうてい人智では究明することのできない、因縁という不可思議な幽玄微妙の作用のいたすところである。しかるにこの因縁という不可思議な作用によって結ばれて、知り合う仲となったものを、己の気に食わぬとか、あるいは心に合致しないとか、彼にはこういう欠点があるとか、または与しがたき習癖があるとか等々の理由をつけて批判排斥して、せっかく結ばれた因縁を無にするというのは、天意を冒?する者というべきである。

聖徳太子
「説法明眼論」
● 或は一国に生れ、或は一郡に住み、或は一県に処り、或は一村に処り、一樹の下に宿り、一河の流れを汲み、一夜の同宿、一日の夫婦、一所の聴聞、暫時の同道、半時の戯笑、一言の会釈、一座の飲酒、一時の同車、同畳同坐、同床一臥、軽重異なるあるも、親疎別有るも、皆是れ先世の結縁なり。
■一日、半時の出会いで行動を共にするのも、すべて先世からの因縁、結縁であるから、これを感謝し、大切にしなければならない、という縁のありがたさを表したもの。一生にただ一度だけの出会いを大切にする心と同じである。

マルクス・アウレリウス
人生のあらゆることを、それが最後だと思って行ないなさい。 Do every act of your life as if it were your last.
 

   老当益壮(ろうとうえきそう)




老当益壮 ろうとうえきそう
老いてはまさにますます壮んなるべし
老年になっても、ますます盛んな意気を持って困難にも立ち向かうべきであるということ。

坂村真民
老いをどう生きるか
若い時から考えておかねばならぬ重大な問題である。今日の老人の悲劇は、そんなことを元気な時考えなかったことから来ている。
いつ死んでもいいと、日本人はよくいうが、それは根本的にまちがっている。釈尊は、そんなことは一度も言っておられない。熱砂を踏んで八十歳まで教えを説いて歩かれたのは、衆生よ、私のごとくあれと、自らお示しになったことを思わねばならぬ。わたしは釈尊の晩年に、そしてその死に人間としての最高の美しさを感じる。二度とない人生を、どう生きるか。開きはじめた朴の花を仰ぎながら、切に思った。

老いること
老いることが/こんなに美しいとは知らなかった/老いることは/鳥のように/天に近くなること/花のように/地に近くなること/しだれ柳のように/自然に頭のさがること/老いることが/こんなに楽しいとは知らなかった

敬老
わたしは自分の力で生きているとは思っていない。諸神諸仏諸菩薩諸天、その他多くの方のおん守りによって生かされていると思っている。それがはっきりわかる齢になった。でもここで大切なことは、わかったならば何か御恩返しをするということである。何でもよい、自分にできる御恩返しをして軽い気持ちになり、合掌してこの世を去ることである。老いたる人を敬うことは大切なことであるが、果たして本当に敬われることをしてきたか、そういうことをしっかり考えることも敬老の日だと思う。

安岡正篤
六十にして六十化す
人間は五十歳にもなればある程度人生の結論に達する。と同時に心のどこかに自ら恕す、肯定しようとする意志が働く。その時に「五十にして四十九年の非を知る」、今までの自己を一度否定することは、これは非常に難しい。
だが、過去の非を知り、自分が自分に結論を下すことは、新たにやり直すことであって、五十になってやり直し、六十になればなったでまた変化する。いくつになっても溌剌として維新してゆくことだ。

老の三つの意味
”老”という文字には三つの意味がある。 一つは年をとる。 二つは練れる。 三つは”考”と通用して、思索が深まり、完成するという意味だ。 老いるとは単に馬齢を加えることではない。その間に経験を積み、思想を深め、自己・人生を完成させてゆく努力の過程でなければならない。これを”老計”という。 それには先ず学ぶことだ。学問は年をとるほどよい。百歳になっての学問は、実に深い味があろうと思う。老いてボケるというのは学問しないからに過ぎない。

老いを忘れる
真の人物は気概があると共に、どこかゆとりがあって、楽しむ所がなければならぬ。それではじめて老いを忘れることが出来る。また実際にいつまでも老いないで暮らすことが出来るのである。

老いの境地
老は元来老いるという意味と共に、その長年月の経験と修練とより出来上がる熟達の境地、なれたとか、ねれたという意味に用いられる。老手老練老酒など、悪く応用されては老獪などの語に明らかであるが-----若い者に免れない生な点や、又世間の多数者に存する通俗な型を超俗した風格、もはや一時的な刺激に自己の全部を動かされたり、事物の一面に捕らわれたり、皮相に止まるようなことはなく、能く全体を観察し、深く内面に通ずることが出来て、凡て自主自由に観察し、行動して何等危っ気の無いところがある。 けばけばしい色彩はぬけてしまって、落ちついた、渋い味を持っている。

晩年
冬になれば、「木落ち水尽き千崖枯れて、ケイ然天地の真吾が現れる」ように、人間も年寄るに随って、容色は衰え、矯飾は廃れて、その人の真実我が蔽うところなく現れてくる。『菜根譚』にも「人を看るには只後半生を看よ」という古語を引いているが、誠に人の晩年は一生の総決算で、その人の真価の定まる時である。

貴老
人間は生ける限り、常にぼけないで、なるべく有意義なことに興味を持ち、道理を尋ね、情熱を抱き続けることが肝腎である。
不老長生とは徒に年をとることではない。いつまでも生きる限り、ぼけないで、人生に興味を持ち、情熱を抱き続けて勉強することである。
老人に対して貴老と呼ぶ。好い語である。老人はいつまでも愚老になってはいけない。文字通り貴老でなければならぬのである。

森信三  
人は退職後の生き方こそ、その人の真価だといってよい。退職後は、在職中の三倍ないし五倍の緊張をもって、晩年の人生と取り組まねばならぬ。  

人間はおっくうがる心を刻々に切り捨てねばならぬ。そして齢をとるほどそれが凄まじくならねばなるまい。

人間というものは、自分のかつての日の同級生なんかが、どんな立派な地位につこうが、少しもあわてず、悠々として、六十以後になってから、後悔しないような道を歩む心構えが大切です。知事だの大学教授だのと言ってみたところで、六十をすぎる頃になれば、多くはこれ恩給取りのご隠居さんにすぎません。

人間は自分の後半生を、どこに向って捧ぐべきかという問題を、改めて深く考え直さねばならぬ。その意味において私は、もう一度深く先人の足跡に顧みて,その偉大な魂の前に首を垂れなければならぬ、と考えるようになった。

後藤静香
老樹
烈風にあたつて/根が深くなった
樹かげに/泉がわいてきた
善いものも悪い者も/その陰にいこわせた
自分を倒す樵人にも/終わりまで陰を与えた

中村天風
人間に年齢はない
いいですか、私はね、人間に年齢はないと思っています。年齢を考えるから年齢があるように思うけれども、六十、七十歳になろうと、自分が十七、十八歳時代と考えてみて、違っているのは体だけ。そして、もう一つ違っているのは、心の中の知識だけの話で、心そのものはちっとも変わっていないはずです。 ですから、四十や五十はもちろん、七十、八十になっても情熱を燃やさなきゃ。明日死を迎えるとしても、今日から幸福になって遅くはないのです。

世の多くの人々は、働くのは、学校を卒業して就職試験に合格したからとか、あるいは生きていくために、というのが大抵の人の目的ではなかろうかと思います。 しかし、お互い人間がこうして働くのは、人間の生まれついた役目なんです。どんな身分になろうと、健康である限り、働かなくてはならないようにできています。これ、人間として生れた者に与えられた大きな恩恵であり、慈悲であります。

年寄りじみたものの云いようや動作をできるだけしないように注意することである。ものを言うときも、溌剌とした気分で、丹田の力で、できるだけ勢いのある音声を発するようにし、立ちふるまいも活発にすることである。 いわゆる若返り法や健康法の効果をあげることの根本にはこれが必要である。要するに、第一に必要なことは、まず気分から若返ることである。すなわち精神を青年にすることである。これが命の源泉である。

六十の手習い
老人になると物覚えがわるくなるというが、老年になったために記憶力が減退したのではない。大抵の老人は自身の若い時代のことなどを話し出すと、その当時の事実を細大もらさず実に詳細に述べる。老年になったから記憶力が減退したのではなく、注意力が散漫になり、物事を完全に記憶しないようになったのに相違ない。 老年者でも有意注意を習性化すると、青年に劣らぬような記憶力がつくられることからでもこの消息は諒解される。

吉田松陰 
●即日より思いたちて業を始め芸を試むべし。何ぞ年の早晩を論ぜや。諺に曰わく、思い立ったが吉日と。
■やろうと思い立ったら、その日から学問や諸芸を始めるべきである。どうして年の高低を論じる必要があろうか。ありはしない、ことわざにも、「思い立ったが吉日」とある。

●勉めざる者の情に三(みっつ)あり、曰わく、吾が年老いたり。曰わく、吾が才鈍(どん)なり。然らずんば則ち曰わく、吾が才高し、学成れりと。
■努力しない人の気持ちには三つある。1.年を取りましたから。2.バカですから。そうでなければ、3.能力あるし、極めましたから。と。

洪自誠 「菜根譚」
前集199項
●日既暮、而猶烟霞絢爛。歳将晩、而更橙橘芳馨。故末路晩年、君子更宜精神百倍。
○日(ひ)既(すで)に暮れ、而(しか)も猶(な)お烟霞絢爛(えんかけんらん)たり。歳(とし)将(まさ)に晩(く)れんとし、而(しか)も更(さら)に橙橘芳馨(とうきほうけい)たり。故(ゆえ)に末路晩年(まつろばんねん)は、君子(くんし)更(さら)に宜(よろ)しく精神百倍(せいしんひゃくばい)すべし。
■陽が沈んでも、夕映えは美しく輝いている。年の瀬が来ても、橙(だいだい)や橘(たちばな)はさらに芳香を放っている。故に、晩年になってこそ、人は百倍の精神力を発揮すべきなのだ。もう終わりだという時期こそ、最後のチャンスがあり、頑張り次第で光り輝けるのだ。
 


   知足常楽(ちそくじょうらく)




足るを知る心があれば、常に楽しく気持ちも楽に なれる。その結果として素晴らしい人生を歩んでいけるということ。
足るを知る者は富む。・・・「老子」

今のままで満ち足りている、現在を肯定できる者は富める者だ。欲を言えばきりがない、心の平穏は訪れない。

足ることを知る人は心が穏やかであり、足ることを知らない人は心はいつも乱れている。釈尊の言葉。
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坂村真民
本当の人生
欲を出すな/足るを知れ/九十歳からの人生が/本当の人生だ/晩年/人生の晩年になって/何をバタバタするか/静かに座して/宇宙無限の/恩恵に感謝し/日の光/月の光/星星の光を/吸飲摂取して/明るく/楽しく/生きてゆけ

後藤静香
豊富
なんたる豊富/一畳ですむものを/わたしの部屋はまだ広い/なんたる豊富/一食ですむものを/毎日三度もたべている/なんたる豊富/空気、水、光/無限の蒼穹(そうきゅう)/浩々(こうこう)たる大地/おおなんたる豊富

一日でも
一日でも/本当に仕合せと思えたら/幸福者だ/一人でも/本当に愛し/本当に信ずる者があったら/幸福者だ/一生仕合せで/万人が善人であれとの願いは/ぜいたくすぎる 嬉しいな 嬉しいな/生きている/本が読めて/字がかける/嬉しいな/生きている/まだまだいい事が/たくさんされる/嬉しいな/可愛いものがいっぱい/可愛がってくれる人もいっぱい 喜びの門 みんなで働いて/みんなで食べて/許しあい/愛しあい/悦びあって生きてゆく/それでいい/十分だ/人生は理論ではない/悦びの門には/いつでも誰でもはいられる

洪自誠 「菜根譚」
前集45項
●人人有個大慈悲、維摩屠?無二心也。処処有種真趣味、金屋茅簷非両地也。只是欲蔽情封、当面錯過、使咫尺千里矣。
○人々、個の大慈悲あり、維摩(ゆいま)・屠かいの二心(ふたごころ)無きなり。処々、種の真趣味あり。金屋(かなや)・茅簷(ぼうえん)も両地にあらざるなり。只だ是(こ)れ欲蔽(よくおお)く情を封(ふう)じ、当面に錯過(さっか)せば、咫尺(しせき)を使(し)て千里(せんり)ならしむ。
■誰にでも慈悲深い仏心があり、維摩居士も屠殺人や死刑執行人も違いはない。また、立派な館でだろうと、粗末なあばら屋であろうと、それなりに趣がある。だから、誰であれ、欲に溺れず、人情に流されないようにさえしなければ、ほんの小さなズレが、時間とともに、大きな違いになる。つまり、それが誰で、どんな事を、どこでしているかでは、善悪は決まらないし、心構えで人生の全てが修養へ道となるのだ。

前集49項
●福莫福於少事、過莫過於多心。唯苦事者、方知少事之為福、唯平心者、始知多心之為過。
○福(さいわい)は事少なきより福なるはなく、禍(わざわい)は心多きより禍(か)なるはなし。唯だ事に苦しむ者は、方(はじ)めて事少なきの福たるを知る。唯だ心を平かにする者は、始めて心多きの禍(わざわい)たるを知る。
■最も幸せなことは、事件が少ないということで、不幸なことは、心ここに在らずという状態のことだ。日頃ゴタゴタ苦しんでいる者は、事件が少ないことこそ幸福だと知っている。そして、心が穏やかな者は、心ここに在らずの状態が不幸だということを知っている。つまり、平凡が一番ということを知っている人間こそが幸せなのだ。

前集98項
●此心常看得円満、天下自無欠陥之世界。此心常放得寛平、天下自無険側之人情。
○此(こ)心、常に看得(ええ)て円満ならば、天下自から欠陥(けっかん)の世界無からん。此の心、常に放(はな)ち得(え)て寛平(かんぺい)ならば、天下自から険側(けんそく)の人情(にんじょう)無からん。
■皆が、自分の心をいつも監視して円満に保つようにしていれば、世界には欠陥など無くなり、自分の心を大らかで開放的にして公平観をもっていれば、世界には刺々しさ無くなり人情豊かになる。

後集20項
●損之又損、栽花種竹、儘交還烏有先生。忘無可忘、焚香煮茗、総不問白衣童子。
○之を損して又損し、花を栽え竹を植えて、儘(ことごとく)烏有(うゆう)先生に交還(こうかん)す。忘るべき無きを忘れ、香を焚き茗(めい)を煮て、総(すべ)て白衣の童子に問わず。
■無意味な思慮分別心(頭の働き)を捨てに捨て、花や竹を植えて「無」を体現する。さらには、忘れるべきことも無いということも忘れ、香を焚き、茶を淹(い)れて、白衣の使者など全く気にかけない。つまり、小細工のために必要な利口な智慧などさっぱりと捨て去り、頭で生きるのではなく、心で生きるという「無」を体現し淡々とあるがままに生きなさいということだろう。

後集21項
●都来眼前事、知足者仙境、不知足者凡境。総出世上因、善用者生機、不善用者殺機。
○都(すべ)て眼前に来たる事(じ)は、足るを知る者には仙境(せんきょう)にして、足るを知らざる者には凡境(ぼんきょう)なり。総(すべ)て世上に出ずる因は、善(よ)く用(もち)うる者には生機(せいき)にして、善く用いざる者(もの)には殺機(さっき)なり。
■目の前で起こっている現象は、「足るを知る者」にとっての此世は、理想郷であるが、満足することの無い欲望の大きい人間にとっては、所謂ところの俗世間なのだ。また、この世に起きることの全ての因縁は、善として用いれば全てを生かす働きをするが、善として使えなければ殺す働きをするものだ。つまり、無欲に徹して淡々と働き、その結果を無条件に受け入れることがこの世は理想郷であるが、足るを知らずに不満を述べていれば、この世は地獄のようなものだ。

後集30項
●貪得者、分金恨不得玉、封公怨不受侯、権豪自甘乞丐。知足者、藜羮旨於膏梁、布袍煖於狐貉、編民不譲王公。
○得(う)ることを貪る者は、金を分(わか)たるるも玉を得ざるを恨み、公(こう)に封(ふう)ぜらるる侯(こう)を受けざることを怨(うら)み、権豪(けんごう)なるも自から乞丐(きっかい)に甘んず。足ることを知る者は、藜羮(れいこう)も膏梁(こうりょう)より旨(うま)しとし、布袍(ふほう)も狐貉(こかく)より煖(あたた)かなりとし、編民(へんみん)も王公に譲らず。
■物欲の強い者は、金を分けても、玉が得られなかったと恨み、貴族(華族)に取り立てられても、領主にしてくれないと恨み、権力者となっても乞食根性が抜けない。身の程を知った者は、粗末な食事でも美味美食より美味しいと思い、ボロ布の服でも毛皮の服より暖かいと感じ、庶民であっても王侯にも劣らないと感じることが出来る。つまり、欲が深い者は、どんなに恵まれた状態でも不幸しか感じないし、物欲を超越した者は、どんなに劣悪な状態でも幸せを感じるることが出来る。

後集111項
●機息時、便有月到風来、不必苦海人世。心遠処、自無車塵馬迹、何須痼疾丘山。
○機(き)息(や)む時、便(すなわ)ち月に到(いた)り風来(き)たる有り、必ずしも苦海(くかい)の人世(じんせ)ならず。心(しん)遠(とお)き処(ところ)、自から車に馬塵(よご)れ迹(たず)ねること無く、何ぞ痼疾(こしつ)の丘山(くうざん)を須(もち)いん。
■意図的に動かそうとする心が無くなると、月は清く輝き、風は清清しく吹いて、この世は必ずしも苦しみ世界では無くなる。心が名誉や利益を求めないと、自然と来客が遠のくのだから、何で人里はなれた所に居を移す必要があるものだろうか。
 



主な引用の出典
著 作 者 書 名 出 版 社  
坂村真民 『坂村真民一日一言』 人生の詩、一念の詩 致知出版社
安岡正篤 『安岡正篤一日一言』 心を養い、生を養う 致知出版社
森信三 『修身教授録 一日一言』 
『森信三・魂の言葉』 二度とない人生を生き抜くための365話 
致知出版社
PHP研究所
松下幸之助 『松下幸之助「一日一話」』 仕事の知恵 人生の知恵 PHP研究所
後藤静香 『権威』 珠玉の言葉があなたを変える 善本社
中村天風 『中村天風一日一話』 元気と勇気がわいてくる哲人の教え366話 財団法人天風会
吉田松陰 『吉田松陰一日一言』 魂を鼓舞する感奮語録 致知出版社
二宮尊徳 『二宮尊徳一日一言』 心を耕し、生を拓く 致知出版社
佐藤一斎 『佐藤一斎一日一言』 「言志録」を読む 致知出版社
洪自誠 『菜根譚』


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