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   ホーム > 言葉と制作例 > 四字熟語 21-2/2 【疾風勁草・盤根錯節・百忍通意・自己陶冶・克己復礼】
 
     「言葉と制作例」 四字熟語
   疾風勁草(しっぷうけいそう)







疾風勁草 しっぷうにけいそうをしる
困難に遭って初めて人間の本当の価値、強さが分かる。困難がその人間の奥に秘めた意志や信念の堅固さを見分けること

疾風に遭うと強い草がわかるの意から、苦境にあって、はじめて人物の真価や意志の強さがわかるということ。「疾風」は激しく早い風。勁は強いの意。
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出典は後漢書の王覇伝。
自分に従って来た者達が次第に離散していく状況に劉秀が慨嘆して述べた言葉。

辞典
疾風に勁草を知り、厳霜に貞木を識る。(晋・顧凱之の詩)
上嘗て謂ふ、蕭瑀(しょうう)は利を以て誘ひ、死を以て懼(おそら)すべからず、社稷の臣なり、と。詩を賜ひて曰く、疾風に勁草を知り、板蕩(ばんとう)に忠臣を識る、と。(圓機活法)

森信三  
いざという時 肚のない人間は、人に長たる器とはいえぬ。

真実なものと、そうでないもの、ホンモノとニセモノとは、平生は一向にその相違は見えなくても、一たん事が起きると、まごうかたなくその相違が現れるものです。そこでホンモノとニセモノとの相違は、かように事が起きるとか、あるいはまた永い年月がたつか、そのいずれかによって、必ずはっきりしてくるものです。

すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。同様にわれわれ人間も、平生はそれほど違うと思われなくても、いざ出処進退の問題となると、平生見えなかったその人の真価が、まったくむき出しになってくるのです。

 

    盤根錯節(ばんこんさくせつ)






地中に広く張り巡らされた根と入り組んだ節と。転じて、処理に困難な事柄。


 

   百忍通意(ひゃくにんつうい)




ひたすら忍べば意は必ず通じる。あらゆる困難に 立ち向かい、逃げずくじけず耐えていれば事は成就すること。

松下幸之助
辛抱が感謝になる
われわれが一生懸命に仕事をしても、世間がそれを認めてくれなかったら、非常に悲しい。そんなとき、その悲しさが不平となり出てくるのも、一面ムリのないことだと思う。しかし“認めてくれないのは世間の人が悪い”という解釈もできるが、“まあちょっと辛抱しよう。今は認めてくれなくても、いつかは認めてくれるだろう”と、じっと堪え忍び、いい姿を続けていくというのも一つの方法である。そして認めてもらったら、これは非常に嬉しい。その嬉しさが感謝になる。“より多くわれわれを認めてくれた社会に対して働かなくてはいけない”という感謝の心になってくる。そういう心がなければいけないと思う。

忍ぶべきを忍ぶ
誠心誠意いいものをすすめたけれども用いてくれないというので憤慨し、これは相手が暗愚だからしようがないとやけになって、結局うちこわしになってしまうということが、ままあるようです。 しかし、そういうことでは、私は大したことはできないだろうと思います。用いてくれなければ時をまとう。これだけ説明してもだめだというのは、これは時節がきていないのだ──そう考えてじっと忍耐していくところから、無言のうちに知らしめる、というような強い大きな誠意が生まれてきます。そしてそのうちに、相手がみずから悟ることにもなって、それが非常な成功に結びつくことにもなりましよう。

後藤静香
堅忍
圧倒せられてもつぶれるな/踏みつけられても/歯をかみしめてこらえておれ/苦しいに相違ない/しかし、辛抱せよ/古来の英雄偉人が/みんなその境遇を通ったのだ/忍びぬけ/勝つにきまっているのだから

二宮尊徳
金言集
世の人 生涯堪忍を破らず、誠を以て諸事を行うふときは、願はずして立身出世疑いなし。

語録311
大任を負う者は誹謗(ひぼう)蜂起(ほうき)して事業将に壊れんとするあり。此の時に当り、極力耐忍して必ず惑う勿(なか)れ。暴風驟雨(しゅうう)も日を終えず、逆変じて順至るも亦期すべきなり。

夜話156
翁の家に親しく出入りする某なる者の家、嫁と姑(しゅうとめ)と中悪しし。一日その姑来て、嫁の不善を並べ喋々(ちょうちょう)せり。翁曰く是れ因縁にして是非なし。堪忍するの外に道なし。それともその方若き時、姑を大切にせざりし報いにはあらずや。とにかく嫁の非を数えて益なし。自ら省みて堪忍すべしと。

洪自誠 「菜根譚」
前集118項
●衰颯的景象、就在盛満中。発生的機緘、即在零落内。故君子、居安宜操一心以慮患、処変当堅百忍以図成。
○衰颯(すいさつ)の景象(けいしょう)は、就(すなわ)ち盛満(せいまん)の中に在り、発生の機緘(きかん)は、即ち零落(れいらく)の内に在る。故に、君子は安きに居りて、宜しく一心を操(と)り、以って患(うれい)を慮(おもんぱか)り、変に処(お)りて当(まさ)に百忍(はくにん)を堅(かた)くして以って成るを図るべし。
■衰退の兆しは隆盛の時に始まり、芽吹きは葉が枯れて落ちる時に始まっている。故に、上に立つ者は繁栄している時に、将来の危機管理に心を集中し、非常事態とあればしっかりと耐える準備をしておくこと。上に立つ者は「陽」の時には「陰」をに備え、「陰」の時は「陽」に備えておくべきなのだ。

前集180項
●語云、登山耐側路、踏雪耐危橋。一耐字極有意味。如傾険之人情、坎坷之世道、若不得一耐字撑持過去、幾何不堕入榛莾坑塹哉。
○語に云う、「山に登りては脇路(そくろ)に耐え、雪を踏んでは危橋(ききょう)に耐(た)う」。一の耐の字、極めて意味有り。傾険(けいけん)の人情、坎坷(かんか)の世道(せどう)の如きも、若(も)し一の耐の字を得て、撑持(とうじ)し過ぎ去らずば、幾何か榛莾坑塹(しんぼうこうざん)に堕入(だにゅう)せざらんや。
■古(いにしえ)の言葉に「山に登る時は、険しい斜面に耐え、雪道では雪が積もっている危険な橋(当時は欄干が無く滑ると川に落ちた)に耐えて歩きなさい」と。耐えるという事は大変大きな意味がある。偏見に満ちた人情や不遇な境遇でも、もし「耐(たえる)」という一字を継続できければ、どれだけ多くの者が、藪や穴や堀に落ちないですみことか。何は無くても「忍耐」ということ。
 

   自己陶冶(じことうや)




陶は焼物を造る、冶は金属を精錬するという意味。人間も焼きを入れ鍛えてはじめて立派な人になる。


坂村真民
信条
詩を作ることは/自己を作ること/自己を作ることは/自己の心を作ること/自己の心を作ることは/大海のような心になり/すべてを受け入れ/すべてを愛すること

念ずる心
善根熟するまで/念々怠らず精進して/自己を作っておこう/そしたら/春風吹き来った時/花ひらくことができ/春雨降り来った時/芽を出すこともできよう

知ること
世界中のこと、男女のこと、その他いろいろのことなど知らなくてもいいのだ。 限りのないことだもの。それより一つのことをはっきりと知った方がいい。愛とは何か。神とは何か。仏とは何か。生とは死とは。己れとは。その何れの一つでもいい。納得のいくまで知ることが大切だ。

妥協
決して妥協するな/妥協したらもうおしまい/一番恐ろしいのは/自己との妥協だ/つねに鞭うち/つねに叱咤し/つねに前進せよ

六魚庵信仰歌
迷いながら/躓きながら/求めながら/失いながら/憎みながら/愛しながら/泣きながら/堪えながら/責めながら/怖れながら/己をつくり/神へ近づく/仏へ近づく

人間作り
花作りも/人間作りも同じだ/どんないい種でも/しっかりと土作りをし/たっぷりと肥料をやり/うんと光と水とを与えてやらねば/いい花は咲かない/日々の努力/念々の精進/その果てに/見事な花が咲き/見事な実がなり/真実な人間ができあがる

ねがい
人は終焉に向かって/自分を磨いて/ゆかねばならぬ/たゆまず/おこたらず/あせらず/いそがず/大木朴の如く

森信三
自分を育てるものは、結局自分以外にはない。これ恵雨芦田恵之助先生の至言。

諸君らにとって何よりも大事なことは、真に自己をつくるものは、自分以外にはないということです。すなわち自己を鍛え、自分というものを、一個の人格にまで築き上げていくのは、自己以外にはないということを、深く認識し決心するということでしょう。

自己を人間的に成長させることを考えない限り、内面的には現在すでに下り坂にある。

とにかく人間は、「自己を築くのは自己以外にない」ということを、改めて深く覚悟しなければならぬと思います。すなわち、われわれの日々の生活は、この、「自分」という、一生に唯一つの彫刻を刻みつつあるのだということを、忘れないことが何より大切です。そしてこれすなわち、真の「自修の人」というべきでしょう。

松下幸之助
みずからを教育する
人間の教育にはもちろん立派な校舎も必要であり、環境も必要でしょうが、それのみに頼っていてはならないと思うのです。行政の充実により、なるほど環境はだんだんよくなってくるでしょう。しかしそういう環境がつくられたとしましても、その中でそれぞれの人がみずからを処して、みずからを教育してゆく。自問自答しつつ、より高きものになってゆくということを怠っては、決して立派な人間は生まれてこないと思うのです。  
今日よりあす、あすよりあさってと、みずからを高めてゆくところに人間の成長があり、またそこから立派な人間が生まれてくるのではないでしょうか。

自然に学ぶ  
自然の営みには私心もなければ、とらわれもないと思います。言ってみれば文字通り素直に物事が運び、素直な形でいっさいが推移していると思うのです。一輪の草花にしても、私心なく自然に花を咲かせているのです。そういった花の姿をみて、もちろん何も感じない人もいるでしょう。しかし、素直な心になりたいという強い願いを持っている人の場合には、あるいはそこに何らかのヒントを見出すかもしれません。  
そういうことを考えてみると、お互いが素直な心を養っていくための一つの実践として、大自然の営み、自然の姿というものにふれて、その素直さに学んでいくということも大切だと思います。

後藤静香
傑作
花がさく/果(み)をむすぶ/おどろくべき創造よ/われらもまたつくりたい/しかし、その前に/われ自らが/造化の傑作と/ならねばならぬ

安岡正篤
陶冶する
最高の教育を受けた人間も、その後の自己陶冶を欠いては、立派な人間には成り得ない。ごく劣悪な教育も、自己陶冶によっては、なお改善され得るものである。 いかにも人間は陶冶次第です。 「陶」というのは、焼物を造る、「冶」というのは、冶金の冶で、金属を精錬することであります。土を粘り、焼いて、陶器を造る。鉄を鍛えて鉄器をつくるようなもので、人間もやはり、焼きを入れ、鍛えるということをやらなければ、ものになりません。いくつになってもそうであります。

中村天風
自己を作るものは自己なり
他力依存の態度ではとうてい自己自身からの実現性が、なんとしても発揮されえない。「自己を作るものは自己なり」という真理は、まことに侵すべくもない絶対的なものである。

合理的自己陶冶法
まず平素の自己の言動と態度とをできる限り積極的にすることを真剣に心がけるということなのである。詳しく言えば、我が心の中に動物心性中の低劣な欲念や感情がたとえ発動することがあろうとも、断然それを言葉や態度に表現しないように注意深く努力することなのである。 そして何故にこうすることが本能心意の整理に対して効果があるかというに、心理的にいえば、本能心意に対して外的自己誘導暗示が作用するためなのである。

自己陶冶の必要性
人々の持つ煩悶とか苦労というものを観察すると、大部分は動物的の欲心かまたは感情念が、その原因をなしているのがすぐわかる。 しかるにいったん自己陶冶が正当に施されると本能心が整理されるために、こうした動物的欲心や感情念の発動が著しく減少し、したがって在来感じた煩悶や苦労もまた目立って現象してくるのである。 要するに自己陶冶が人生に必須なる所因理由は実にこの点に存するといってよい。

鋼鉄を鍛えるが如く
自己陶冶とは自己の人格を向上させることで、あたかも鋼鉄を鍛えるのに等しい。鋼鉄は鍛えれば鍛えるほどその質を良好にする。人間も自己を陶冶すればするほどその人格は向上する。 自己陶冶を等閑視すると人間を向下せしめるような消極的の暗示や価値のない誘惑にわれわれの精神が感応しやすくなり、反対に自己の向上に必要な積極的の暗示や、または正しい自覚を促す真理に感応しなくなる。その結果、人生苦のみを多分に味わうことになるのである。

洪自誠 「菜根譚」
前集189項
●磨蠣当如百煉之金、急就者非邃養。施為宜似千鈞之弩、軽発者無宏功。
○磨蠣(まれい)は当(まさ)に百煉(ひゃくれん)の金の如く、急就(きゅうしゅう)は邃養(すいよう)に非ず。施為(しい)は宜しく千鈞(せんきん)の弩(ど)の似(ごと)く、軽発(けいはつ)は宏功(こうこう)無し。
■自分自身を磨き上げるには、繰り返して練り鍛える金属のようにすべきで、簡単に行う修養ではあってはいけない。起業する場合は、強靭な石弓を放つ時のように慎重にすべきで、軽薄な起業では成功はしない。つまり、内面の問題であれ、外形の問題であれ、何事にも成果を出すには、慎重且つ堅実に行えということ。

前集220項
●子弟者大人之胚胎、秀才者士夫之胚胎。此時、若火力不到、陶鋳不純、他日、渉世立朝、終難成個令器。
○子弟は大人(たいじん)の胚胎(はいたい)にして、秀才(しゅうじん)は士夫(しふ)の胚胎(はいたい)なり。此時(このとき)、若(も)し火力(かりょく)が到らず、陶鋳純(とうちゅう・じゅん)ならざれば、他日、世を渉(わた)り朝(ちょう)を立つとき、終(つい)に個の令器(れいき)と成り難し。
■若者はオトナの卵であり、秀才は成功者の卵である。このような状態は、陶器を焼き、金属を鋳造する時の火力不足のような事があれば、後日、生長して社会に出しても、大した器にはならないということ。成長過程にある人は適正な厳しさを以て育成されないと、人材を失う事になりますよ、ということ。
 


   克己復礼(こっきふくれい)










克己復礼 こっきふくれい
自分の欲望、私欲にうち勝ち、社会の規範・礼儀に従って行動すること。

おのれに克つ。人と比べることは意味をなさない。人は人。自分自身をみつめてその弱さを超えていくしかない。苦しくとも自分を励まして力を満たしていきたい。その過程の中でも必要なことは礼儀である。
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松下幸之助
礼儀作法は潤滑油  
私は礼儀作法というものは、決して堅苦しいものでも、単なる形式でもないと思います。それはいわば、社会生活における“潤滑油”のようなものと言えるのではないでしょうか。  職場では、性格や年齢、ものの考え方など、いろいろな面で異なる人びとが相寄って仕事をしています。そのお互いの間をなめらかに動かす役割を果たすのが礼儀作法だと思うのです。
ですから、礼儀作法というものは、当然、心のこもったものでなければなりませんが、心に思っているだけでは潤滑油とはなり得ません。やはり形に表わし、相手に伝わりやすくし、心と形の両面があいまった適切な礼儀、作法であってこそ、はじめて生きてくると思うのです。

過当競争は罪悪  
お互いに適正な競争はやりつつも、過当競争はいわば罪悪として、これを排除しなくてはなりません。特に資本力の大きな大企業、業界のリーダー的な企業ほど、そのことを自戒しなくてはいけない。小さな企業が少々過当競争的なことをしても、リーダー的な企業が毅然として正しい競争に徹したならば、業界はそう混乱しないでしょう。
しかし、もしリーダー的な企業が率先して過当競争を始めたのでは、あたかも世界大戦のごとき大混乱をもたらして業界をいちじるしく疲弊させ、その信用を大きく失墜させることにもなります。企業が大きければ大きいほど、業界の健全な発展に対する責任もまた大きいと言えましょう。

安岡正篤
礼と義
総て生きとし生けるものは皆体を具えている。 すなわち全体的存在なのであって、部分を雑然と集めたものではない。無数の部分から成り立っている全体である。 この全体と部分、部分と部分との間柄が美しく調和している状態を「礼」という。私共の内臓の諸器官、胃とか腸とか、肺心臓というものが相依り相待って間然するところのない健康は、我々の体内での礼である。 そこで、自分にしろ、家にしろ、国家にせよ、全体を構成する部分がその分本来の立場に於いて、或いは他の部分に対して、如何に為すべきやを問い出退することを「義」という。義は宜なりといわれる所以である。


「礼」とは何か。およそ存在するものはすべてなんらかの内容をもって構成されている。その全体を構成している部分と部分、部分と全体との円満な調和と秩序、これを「礼」という。

中村天風
自己に打ち克つ心
正心誠意を以って、為されざる事柄というものは、たとえそれがいかに立派そうに見えても、断然人の世のためになるという尊い結果を作為しない。 況や、人々の共同幸福のために努力しようとするのには、崇高なる克己心というもの、すなわち自己に打ち克つ心が、これまた何よりも必要である。

山本常朝(葉隠より)
勝といふは、味方に勝事也。味方に勝といふは、我に勝事也。我に勝といふは、気を以(もって)、体に勝事也。

二宮尊徳
夜話38
古語に、己に克って礼に復れば、天下仁に帰す、仁をなす己による、人によらんやとあり。己とは、手のわが方へ向く時の名なり。礼とはわが手を、先の方に向くる時の名なり。

夜話続42
論語に己に克て礼に復れと教えたるも、佛にては見性といひ、悟道といひ、転迷と云ふ。皆これ私を取り捨つるの修行なり。この私の一物を取捨つる時は、万物不生不滅不増不減の道理も又明らかに見ゆるなり。此の如く明白なる世界なれども、この己を中間に置きて彼と是とを隔つる時は、直ぐその座に得失損益増減消滅等の種々無量の境界現出するなり。恐るべし。

夜話225
己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰すと云へり。是の道の大意なり。夫れ人、己が勝手のみを為さず、私欲を去りて、分限を謙り、有余を譲るの道を行ふ時は、村長たらば、一村服せん。国主ならば一国服せん。 釈氏は王子なれども、王位を捨て鉄鉢一つと定めたればこそ今此の如く、天下に充満し、賤山勝といへども尊信するに至れるなれ。則ち予が説く所の、分を譲るの道の大なる物なり。則ち己に克つの功よりして天下是に帰せしなり。凡そ人の長たらん者何ぞこの道に依らざるや。

第六話
語録297
人道は私欲に克って、努力して守るべきもの。 天理・天道と人道は別なものである。また、天理・天道は永遠不変であるのに対して、人道は刻々と変化し、少しでも手を抜けば保ちにくくなる。従って、人道では、努力を良しとし、自然に任せて放置することは尊ばない。努力とは、己に克つことである。ここで言う己は、私欲である。私欲は、田畑に生える雑草に等しい。己に克とは、その草を取り去ることであり、自分の心の田畑に生える雑草を取り去り、その田畑の米麦を繁茂させる仕事に励むことである。これが人道である。論語に、「克己復礼為仁」とあるのは、このことである。
※「克己復礼為仁」(おのれにかちて、れいにかえるを、じんとなす)論語、顔淵

洪自誠 「菜根譚」
●降魔者、先降自心、心伏則群魔退聴、駆横者、先駆此気、気平則外横不侵 
○魔を降(くだ)すには、まず自心を降す、心(こころ)伏(ふく)すれば、群魔退き聴く、横(おう)を駆(ぎょ)するには、まずこの気を駆す、気平(たい)らかなれば、外横侵さず 
■まず、みずからの心に打ち勝とう。そうすれば、どんな誘惑でも退散するだろう。まず、みずからの心をコントロールしよう。そうすれば、どんな妨害もつけ入ることはできない。


●降魔者、先降自心。心伏則群魔退聴。馭横者、先馭此気。気平則外横不侵。
○魔を降(くだ)すには、先ず自の心を降(くだ)す。心伏(しんふく)すれば、則ち群魔(ぐんま)退(しりぞ)き聴(したが)う。横(ほしいまま)なるを馭(ぎょ)するには、先ず此(こ)の気を馭(ぎょ)す。気平(きたいら)かなれば、則(すなわ)ち外横(がいこう)も侵(おか)さず。
■魔性のものを降伏させようとするなら、まず自分の心にある魔性を降伏させなければならない。煩悩や妄想を滅することができれば、外的な魔性は引き下がり逆らうことはなくなる。また、横暴なものを制御しようとするなら、まず自分の心にある横暴な気を制御するしなければならない。勝気や客気を平静にすれば、外的な横暴は自分に進入することはない。
 



主な引用の出典
著 作 者 書 名 出 版 社  
坂村真民 『坂村真民一日一言』 人生の詩、一念の詩 致知出版社
安岡正篤 『安岡正篤一日一言』 心を養い、生を養う 致知出版社
森信三 『修身教授録 一日一言』 
『森信三・魂の言葉』 二度とない人生を生き抜くための365話 
致知出版社
PHP研究所
松下幸之助 『松下幸之助「一日一話」』 仕事の知恵 人生の知恵 PHP研究所
後藤静香 『権威』 珠玉の言葉があなたを変える 善本社
中村天風 『中村天風一日一話』 元気と勇気がわいてくる哲人の教え366話 財団法人天風会
吉田松陰 『吉田松陰一日一言』 魂を鼓舞する感奮語録 致知出版社
二宮尊徳 『二宮尊徳一日一言』 心を耕し、生を拓く 致知出版社
佐藤一斎 『佐藤一斎一日一言』 「言志録」を読む 致知出版社
洪自誠 『菜根譚』


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